【車屋四六】日本のマイカー元年

コラム・特集 車屋四六

ここでマイカーと呼ぶのは、平均的所得者の自家用車のこと。ということは大衆車を指す。

日本で大衆車を名乗る車が登場したのは昭和30年代だが、当時の大卒初任給1万数千円の頃では、とてもじゃないがブルーバードもコロナも高嶺の花だった。

敗戦このかた昭和30年代半ばまで日本は〝働け働け〟で、経済復興期優先だったが、後半になって大きな転換期を迎える。

その転換期とは昭和39年頃=1964年の東京オリンピック開催の頃である。

前年に新車登録台数100万台突破。鈴鹿で第1回日本GP開催。東京オリンピックの64年には、東海道新幹線開業、首都高部分開通、高速道路建設と大型公共投資続々で日本の経済成長を牽引した。

谷田部の高速試験場開業なども含めて、日本の自動車環境は高速時代の準備に入った。

十年一昔と昔から云うが、その一昔で所得は倍増、逆に新車価格が量産技術の進歩で下がり、その相乗効果で、大衆車登場の準備も整った。

61年に、トヨタはパブリカを38万9000円で発売し、その安さで、たちまち人気者にはなったが、すぐに低空飛行に転じたのも、急激な経済成長、所得増加の反作用だった。

パブリカ開発の主査だった長谷川龍雄は「急激な経済成長で所得が増えたユーザーは、簡素一点張りのパブリカでは受け入れられなくなった」と結論して、次なる計画に着手したのが、社内コード179A=それがカローラKE10型である。

開発にあたり長谷川主査が掲げた目標が「80点主義」。

「大衆車に傑出した特徴は不要、自動車は全ての部分で欠点がない80点でよろしい」というのだ。

後に「トヨタの80点主義」といわれる原点がここにあり、それは長谷川主査の見事な見識だった。全て100点を目指した、業界トップの日産とは対照的である。

カローラがほぼ完成したのは66年春だったが、すでにサニーのプレキャンペーンが始まっていた。で、対策を検討。が、どう転んでもカローラの発売は、サニーより半年遅れになる。

しかも、4月に発売されたサニーの人気は鰻登りで、快走を始めていた。

「このまま放っておけばえらいことになる」。半年先まで待ってはいられない。が、クルマは間に合わない。で、トヨタは、巧妙な作戦を編み出し、実施したのである。

それは、排気量をサニーの1000㏄に対して1100㏄とすることだった。

が、完成したエンジンは1077㏄。こいつは急ぎ仕事で排気量を拡大した結果だった。初めから1100㏄で開発するなら、下2桁はこよなく99㏄に近いはずだからだ。

完成したK型エンジンは60馬力。サニーに対して5馬力強力だった。

で、後発カローラがとった戦略が、のちの世までの語り草となる。

後発有利の例えどおり、カローラは諸元から性能まで、全て少しずつだがサニーを上回り、さらにとどめのキャッチフレーズが“プラス100㏄の余裕”だった。

“プラス100㏄” 先行する人気者サニーにぶつけた有名なキャッチフレーズ

一方でトヨタはカローラ発売前に、199社もの販売店を準備し、9月7日には〝カローラ1100“と名前だけを発表、性能、価格を伏せて、前記名文句で車名と車格のプレキャンペーンを張ったのである。

十分な手応えを感じて、10月20日に登場して、たちまちリッターカー市場のトップに立ったカローラのその後の活躍はいまさら説明の必要はなかろう。

いずれにしても、サニーとカローラが66年=昭和41年に登場して、日本に大衆車市場が芽生えたゆえに、この年を日本のマイカー元年と宣言しても異論はなかろう。