アルファ・ニコラロメオの野望

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レースに勝って、知名度あげよう目的のニコラ・ロメオの野望により、軽量化された二座席24HPの初戦は、リードを続けるドライバーの目に泥水で視界を失い、やむなくリタイアは前回報告したが、その後24HPは逐次磨き上げられながら各地レースやヒルクライムに挑戦、好成績を残し、知名度をあげていった。

感心事は四気筒のままに、4ℓが最終的には6ℓにもなり40-60HPを名乗るが、一気筒辺り1500ccは今では非常識な気筒容積である。さらにサイドバルブ(SV)からOHVに進化するが、以来アルファは二度とSVに戻ることはなく、市販車でも世間がOHVの時代にはDOHCという、常に先進的街道を走り続けている。

さて24HPは2014年には49馬力(20/30)に進化、20年迄生産される。が、21年には4250cc・67馬力に強化されて、それが22年迄生産された20-30ESである。

メロージ作の20-30ESスポルト1921年製。22年からホイールがウッドスポークからワイヤーホイールになるから/82馬力に強化されて最高速度125㎞は当時としては最速レベルの走り。

さらにホイールベースを3mに短縮、150㎞が可能な車重1050kgの二座席競争車を開発するが、WWⅠ勃発でお蔵入り。WWⅠが終わると戦線復帰して、国内の小さなレースで好成績をおさめた。

高性能車を造り、レースで数々の勝利を収め、アルファ社の発展と共に歩んできたメロージ最後の作品は、23年戦線に登場したP1。こいつは、2ℓ以下、車重600kg以下というグランプリ=GP仕様に合わせたものだった。

このP1は23年に3台試作されて、モンツァGPにエントリーしたが、前日の試走中にベテラン・シヴォッチの事故死で喪に服し、レースで活躍することは出来なかった。

アルファG.P.R-P1.1923年:運転席はタルガフロリオ前日の試走中に事故死したシヴォッチ/シヴォッチは、カンパーリ、アスカリと共にアルファ三羽烏と呼ばれていた名手だった。

が、そのままでは終わらなかった。で、WWⅠ後の第一作が六気筒のRLで発表は22年。実際には既に開発済みだったらしいが、戦前からのストック車や、20/30HPESを売り尽くすまで待ってから発表されたようである。

RLシリーズには、スタンダード・ノルマーレ・ロングWBにツーリスモとスポルトがあり、スポルトは2160cc/51馬力をボアアップして、2994cc/71馬力という強臓の持ち主となった。

そして、23年には、伝説的技術屋と云われるV.ヤーノが入社する。彼はメロージの「高性能乗用車とスポーツカーはレースにも強い」のモットーを、決定的にした功績者となった。

フィアットで頭角を現したヤーノが上司と合わぬことを知り、引き抜いたのは、レースドライバーとして活躍中の、フェラーリ(後のフェラーリ社主)だったと云われている。

ちなみにヤーノが移籍した23年は、大正12年の関東大震災の年。壊滅状態の東京に必要は物流ということで不振のヤナセが在庫一掃、市電壊滅で円太郎バスが走ったのは紹介済みだが、山の手線の僅か二日での営業再開は知られていない…ズタズタ状態の架線で?という疑問は、蒸気機関車だったというのが答えである。

P2の後登場のヤーノ作6C1500/1925年:好評好成績を挙げたRLの半分しかないが六気筒SOHC・1487cc・44馬力を搭載/スーパーチャージャー付きモデルは76馬力に達しアルファのミッレミリア初優勝を手にした。

 

車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち」「懐かしの車アルバム」等々。

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