NSUを知っている人も少なくなった…NSU=ネッカースウルムの頭文字。工場が独ネッカー河のほとりにあり、それにちなんだものである。(Neckars Ulm)
NSUの創業は1873年/明治6年だから、日本でカレンダーが陰暦から太陽暦に・江戸時代からのキリシタン禁制解除と日本は文明開化真っ最中で、西洋人の来日が増えて横浜海岸通りに外人専用のグランドホテルが開業した頃だった。
もっとも創業時は編み機製造で、85年に自転車製造開始、20世紀に入る頃二輪自動車開発を始める。実は、ダイムラー発明の世界初内燃機関で走らせた二輪車は、NSUの設計だそうだ。
やがてNSUが売り出す自動二輪車の名は、五角形の燃料タンクに書かれているように、ネッカースウルムだった。
後年のNSUは四輪車で知られているが、1955年頃は世界最大の二輪メーカーでもあったのだ。
さて、NSUの四輪製造は、1906年/明治39年から始まり、順調に発展を続けるが、29年のニューヨーク株暴落に始まる世界恐慌のあおりを受けて、四輪部門をフィアットに売却した。
で、WWⅡ終戦後に生産再開した独フィアットは、本家と区別するために{ネッカーフィアット}と呼んでいた。
さて、二輪市場に君臨していたNSUは、WWⅡ後に四輪市場へのカンバックを目指したNSUは、58年にプリンツを発表した。
プリンツは軽自動車、あちらの呼び名で云えば{バブルカー}だが、空冷単気筒583cc20馬力・4MTは、経験豊かな二輪技術が生かされ、軽ながら四人乗ってアウトバーンを105km/hで走った。
この性能は、当時の750ccクラスの性能と同等だったそうだ。
全長3150㎜、全幅1420㎜、全高1370㎜。車重500kg。コイルスプリングで四輪独立懸架、リアエンジン後輪駆動=RR式だった。
NSUプリンツのドイツ市場でのライバルは、ゴゴモービル579cc、メッサーシュミット191cc、ロイトアレキサンダー596cc、マイコ500&152cc、ツンダップヤヌス248cc、BMWイセッタ245ccなどだった。
ライバルと戦いながらプリンツは順調に成長、スポーティーさを加えて、私がホンダS600でヒルクライムやジムカーナを走っていた頃の、良きライバルでもあった。
そして、NSUが天下に名をとどろかす時がやってきた…18世紀から夢のエンジンと云われながら、実用化が出来ずにいたロータリーエンジンの開発に成功したのである。
もっともロータリーエンジン(RE)の呼び名は日本だけのもので、世界的には開発者バンケル博士から{バンケルエンジン}または{ロータリーピストンエンジン}と呼んでいる。
ここで一言…REの特許は世界中の名だたるメーカーが買ったが、ほとんどが量産実用化の目処がたたず、本家NSUでさえ撤退したのだが、その中で唯一マツダだけが、量産化に成功して活躍したのは皆さん御承知の通り…失敗の原因のあらかたは、燃焼室の機密を保つシール材開発の難関を越えられなかったからである。
バンデラー、ホルヒ、DKW、アウディ、四社合併で32年にアウトウニオン社誕生するが、WWⅡ後の69年にNSUも入ってアウディNSUに、それが今のアウディ社なのである。