【車屋四六】ツンダップ・ヤヌス

コラム・特集 車屋四六

世界初人工衛星ソ連のスプートニクが宇宙に飛んだ昭和32年、日本ではカラーTV放送が始まり、NHK技研で19型カラーTVの国産化に成功するが、未だラジオ放送も健在だった。

昭和32年/1957年に、ドイツでは異色の軽自動車が誕生した。
ツンダップ・ヤヌス…前から見ればBMWイセッタ似でも、後姿はまるで違う、コンセプトも違う軽自動車だった。

そもそもツンダップ社は、WWⅠ中の17年、弾丸の信管製造でクルップ社と時計のディール社が創業した会社だが、終戦で需要がなくなり、21年に二輪製造を始めた。

その二輪は好評で、市場占有率31年5%、37年には18%と成長して、天下に知られる二輪メーカーとなる。
WWⅡが始まると、悪路も走れるデフロック装備のサイドカー付KS750をドイツ陸軍に1万8000台納入/云うなれば3WDである。

さて、ツンダップ社は84年に倒産して、生産設備を中国天津の二輪メーカーに売り渡すが、顧客を抱える二輪の方は、英国のロイヤルエンフィールド社が80年代まで造り続けた。
ということで今では二輪の名も消えてしまったが、四輪の世界ではなおさらで、ツンダップを知る人など滅多にいない。

ツンダップは、WWⅡ前、好調な二輪の勢いで四輪市場を目指したことがある。が、四輪技術がないから設計をポルシェに依頼、名前をフォルクスアウト=大衆車と決めていた。
ポルシェは空冷水平対向四気筒搭載を提案したが、ツンダップが水冷星形五気筒を供給して、32年3台の試作車が完成するが、生産されることはなかった。ちなみに試作車は空襲で焼失。

余談になるが、このタイプ12は、後のRRで一世風靡するVWビートルの基本を全て揃えていた。このあと、NSU社からも設計依頼を受けタイプ32を完成するが、その姿はビートルそっくりだったが、残念ながら生産されることはなかった。

さて本題に戻ろう。57年から58年と短命だったヤヌスには、イセッタ、ハインケルなどのライバルが存在したが、姿が似ていても、開発コンセプトは、かなり違っていた。
ヤヌスは全長2890㎜、全幅1420㎜、WB1825㎜。車重425kg。空冷単気筒2サイクル148ccで14馬力、4MTで時速80km/h。

さて、ヤヌスの特徴は、ライバル達と前からの姿はそっくりだが、後ろから見ても同じ姿をしていた。前後前開きのドアから乗り込む四座席型だが、座席が背中合わせで、後席は後向きだったのだ。
こいつは一見合理的だが、自転車の荷台に後向き座ったことを想像すれば、まことに不安、弱い人は酔ってしまうだろう。

実は、ツンダップは戦前同様に四輪技術がないので、設計を大型飛行艇で有名なドルニエ社に依頼した。元飛行機屋は合理的で、操安性重視でエンジンを中央に置きミドシップ構造とした。
結果、背中合わせの座席誕生「後席に乗るのは不安で嫌だった」と、乗ったことのある知人のドイツ人が云っていた。

結局ヤヌスは売れなかった。不評だったのか、販売網の不整備だったのか、四輪市場参入は果たせなかったが、モーターサイクルメーカーとして、その後も活躍したのである。

独陸軍のツンダップK800三輪駆動車1937/:独シュコー玩具社の広告