昭和30年頃の日本は朝鮮戦争特需のきっかけで、敗戦からの貧困を脱して、生活にゆとりも生まれはじめていた。
ちなみにこの時代を{神武景気}と呼び、庶民家庭の電化がはじまり、働き疲れを癒す{船橋ヘルスセンター}なども登場、食うためではなく、楽をするためや遊興目的の消費が始まった。
乗用車市場では、近代的クラウン、軽初の量産スズライトSS、日産オースチンA50、ユニークなフライングフェザーなどが登場したが、同じ敗戦国のドイツは、まるで様相が違っていた。
昭和30年は45年だが、よちよち歩きから脱し、ようやく一人前の乗用車登場という日本とはことなり、世界が注目するスポーツカー190SLの販売を始めるが、その前年300SLを先行販売している。
190SLは、当時世界最高と評された300SLの廉価版と云う人もいた。また「300SLでは手にあまる人達の…」とも云われたが、それは腕前なのか、懐具合なのか、どちらを指したかは不明だ。
が、300SLの廉価版と思ったのは浅はかで、実は別物だった。
チューブラーフレームに外皮貼りという超軽量仕上げの300SLに対して、190SLの構造はオーソドックスであった。
180セダンのホイールベースを、250㎜短縮したフレームで仕上げていたのである。
エンジンは3ℓ直五気筒ではなく、新開発ではあったが、直四OHCの1987ccで、圧縮比8.5とソレックスキャブ2連装105馬力の1ℓ当たりの出力が52.8馬力/ℓと、優れものだった。
ちなみに車重は1160kg。新開発の4MTで操れば、ゼロ100加速14.5秒、最高速度171km/hの俊足の持ち主である。
プロトタイプでは、180型の流用らしくコラムシフトだったが、市販時にはフロアシフトでスポーツカーらしく生まれ変っていた。
御承知のように300SLはガルウイングで有名だが、57年から63年までは普通の横開きドアに変更は、どうやらアメリカ市場を考慮したものだったようだ。
一方、190SLの方は、初めから横開きという、常識的ドア形式だ。こいつは、開発時からアメリカ市場を意識したものと云われているが、180型流用だから、この方が自然だと思われる。
デビューした時はオープンのロードスターのみだったが、直ぐにデタッチャブル・トップが追加されたのも、アメリカ市場の要望があったからのようだ。
アメリカ上陸当初、190SLの値段は、$3998だったが、最終モデルでは$5020になっていた。ちなみに300SLの方は、$1万970→$1万1573と高価だった。
当時アメリカ製スポーツカーでは、人気者のフォード・サンダーバード最上級バージョンが$5000強だから、190SLは高価格帯のスポーツカーではなく、買いやすい価格と性能で評判も良く、63年の終了時までに2万5881台生産というのだから、スポーツカーとしては、ヒット作品だったと云えよう。
戦争前は高性能高品質の乗用車を多出したドイツだから、同じ敗戦国でも日本とは違う。日本で初めての本格的スポーツカーといえば、ダットサン1500(フェアレディー)だが、登場したのは190SLが生産を終えた63年だった。