【車屋四六】オートモ号という車

コラム・特集 車屋四六

私が小学生のころ、英語は敵の言葉だから使ってはいけなかった。が、戦争前の雑紙で、自動車の写真に{オートモビル}と書いてあって、これが私が最初に憶えた自動車関連の英語だった。

外国など全く知らない少年は、それから発展して{大友さん}という人が作ったので{大友ビル}なのだろうと想像した。
やがて戦争が終わり、中学で英語を習うと{オートモビル}は自動車だと知るが、その後はしばらくは忘れていた。

そのころ進駐軍のピカピカ乗用車を見るようになり、自動車に興味を持ち始めて雑紙や本を読みあさり、日本に大友ビルがあることを知ったが、それは大友ビルではなく、オートモ号だった。

しかし、オートモ号は大友さんではなく、裕福な三菱重役の家に生まれた豊川順彌(1886~1965)が作った車だった。
22年/大正11年、帝国ホテル開業の年に、直列二気筒850cc小型車の開発に成功して、東京京橋に白揚社を創立した24年は、甲子園球場が完成した年だった。

オートモ号後からの姿/トヨタ自動車博物館で

オートモ号は、それから四年間ほどのあいだに300台ほどが生産されたが、そのなかの数台が上海や香港に輸出されている。
日本製自動車の初輸出ということになる。

オートモ号が生産を止めた28年は昭3年、アムステルダム五輪の年。織田幹雄が三段跳びで、鶴田義行が200m平泳ぎで日本初の金メダル、人見絹惠が陸上800mで日本女子初の銀メダルを取り、日本中が湧いた年だった。

私が見たオートモ号は、トヨタ博物館と国立科学博物館で協同復元した幌型のオープンで、運転手1名/客席2=定員3名。
この車、初期の標準型で、全長10尺/3030㎜、全幅4尺/1212㎜、全高5尺4寸/1636㎜、タイヤ26吋。車重120貫/450kg。エンジンは、空冷直四OHV・943cc・公称出力9馬力/マグネトー点火/クランク始動。尺貫法と吋ごちゃ混ぜが時代を反映していて面白い。

写真のオートモ号は、99年4月からトヨタ博物館に特別展示されたが、その前、レストア完了直後に見る機会があり、撮ったもの。
この車の復元は大変だった。元の所有者・浦和の橋口医院から国立博物館に寄贈された時には、エンジンと変速機だけ。そこからのレストアだから、あらかたはトヨタ博物館製なのである。

が、幸いなことに、国利科学博物館に図面が1700枚、部品構成表が1400枚、他に写真屋カタログなど豊富に保管されていたから、トヨタ製と一口に云ってはいけない。材料ばかりか工作方法まで、出来るだけ当時のままを再現してのレストアだったのだ。
エンジンは大正14年7月製造ということが判っており、車体番号55に搭載ということも資料に記載されている。

なお完成車のナンバープレートの9992番は実存した番号。
現存するカタログに、美しい娘が乗るオートモ号の写真があり、それが9992番。復元は、そこまで気が配られていたのである。
ちなみに、この娘は成長して大女優になる。親派の初代水谷八重子である。

白揚舎のカタログに載るオートモ号と水谷八重子