ちなみに、フォルクスワーゲンはドイツの自動車メーカーの名だが、本来のドイツ語では、フォルクス=国民、ワーゲン=車で、国民車=大衆車だから、表題はトヨタの大衆車とゴ解釈願いたい。
さて戦後15年、敗戦国的貧乏経済も一段落し、一般庶民もクルマが欲しい願望が芽生え始めた。で、1961(昭和36)年に頃はよしと発表されたのが通産省の国民車構想で、いくつかの会社がこれに挑戦した。トヨタもその1社だが、価格面で構想の条件を満たせなかったのが残念だったが、クルマの完成度はなかなかだった。
そのクルマ、小型車にノウハウがないトヨタは、戦前からの老舗オオタの技術を参考にしたと聞く。完成は1960年で、さっそく全日本自動車ショーに出展されて注目を浴びた。全長3.5m、全幅1.4mと小柄ながら、大人4人がしっかりと乗れて、当時のレベルとしては高性能で画期的小型車だった。
この国民車構想で生まれたクルマの名前を、一般公募でと発表したのは、事前人気を盛りあげるプレキャンペーンだった。当選すれば市販1号車+100万円とあって、トヨタの目論見は的中、応募締め切の12月13日には、ハガキが山になった。
その数、実に108万7656通で、応募のペットネームは7万5000を越えて、その中から先ず1000語が選ばれた。
審査員は当時のマスコミ的著名人達…藤原あき/資生堂→参議院議員、藤浦洸/作詞家、糸川英夫/工学博士ロケット開発、池田弥三郎慶大教授、亀倉雄策/グラフィックデザイナー、横山泰三/漫画家。そして豊田副社長、神谷トヨタ自販社長など。
選ばれた1000語の中から当選したのが「パブリカ」…大衆=パブリックとクルマ=カーを引っかけた造語…いうなればトヨタのフォルクスワーゲンだった。それまでのトヨタのネーミングは、トヨペットクラウン、トヨペットコロナのように、トヨペットを冠していたから、それから外れた新しいネーミングの誕生だった。
しかしパブリカの名は、1通ではなく9通、ということは9名が当選該当者だったのだが、抽選で当選したのは25歳の新聞配達員・横浜在住の田代寿一という幸運者だった。ちなみに、1000語の中から審査員が目に留めたのは、トヨセブン、トヨモンド、トヨライナー、エコー、コロネット、ポニー、ロビン、オーロラ、キティーなどだった。
そんな経緯で発売されたパブリカの値段38万9000円は、安いとはいえ庶民には高価な買い物。当時の物価は、大卒初任給1万5000円、ガソリン45円/ℓ、ソバ一杯40円、国産ウイスキー水割200円/東京会館の頃だった。
1966年、外貨持出制限500ドル、1ドル=360円時代で、欧州の貧乏旅行からの帰路、少し残ったドルでバンコクで途中下車?。12月雪降る欧州から着いた常夏のバンコク、クリスマスソングやツリーがピンとこなかった。
着衣も夏物なく冬物ばかり、Yシャツの袖まくりで散策中にパブリカを見つけたが、看板のタイ語が読めず、ハテナと思ってから早56年が過ぎてしまった。で、今回タイ在住の児玉一究、通称イッキューさんに写真を送り尋ねて、56年ぶりに問題解消した。
不明のタイ語は、英文でPhithan Phanich Co.,Ltd.=ピータン販売(株)。1914(大正3)年創業の老舗で、36年から自動車販売、現在もトヨタ車の販売継続会社とわかり、長年の胸のつかえが下りた。
(車屋 四六)
車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち」「懐かしの車アルバム」等々。