日本グランプリ黎明期の戦い(2/4)

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必勝を期した第2回日本GPの為にプリンスは必勝のチーム結成をしたが、その総司令官が中川良一だった。結果は、ツーリングカー部門では、グロリアと新鋭スカイライン1500の圧勝となった。

だがGT部門では、グロリアもスカイラインも、どれほどチューニングしても、仮想敵のコルチナロータスには勝ち目がない。そこでスカイラインに6気筒を載せる案が出た。が、4気筒より180㎜長いので搭載不能という結論で喧々囂々(けんけんごうごう)となる。

そこで中川さんの「ボディーを切りホイールベースごと200㎜伸ばそう」の一言で開発がスタートする。「飛行機屋時代の勘働きでね」とは後日の話しだったが、図面ができたらお化けみたいといわれ、私もそう思ったが、重心を下げてチューニングすると意外に良く走ることがわかったと言っていた。

さて勝負の段になると、プリンスに優勝なければ宣伝価値なし、とばかりにポルシェ904の登場となるのだが、それが裏目に出るのは前話で説明のとおりである。

このようにして、プリンス中川軍団の雪辱戦は勝利に酔いしれることで幕が引かれたが、第3回日本GPは、1年の空白をおいて鈴鹿から富士に戦場が移った。

第3回日本GPのトヨタ2000GT/福沢幸雄:注・レース仕様不明ゆえ市販車諸元=全長4175×全幅1600×全高1160㎜・ホイールベース2330㎜・車重1120㎏・3M:直6 DOHC1988cc150HP/6600rpm・5速MT/3速AT。(3Mのレース用目標は220HPだったが実際には推測200馬力前後)。

第1回に完勝したトヨタの第2回が、諦め作戦に変更したのは報告済みだが、第3回のトヨタは、車重が重い耐久レース指向のトヨタ2000GTを優勝無視、宣伝目的で出場させるが、今度はトヨタにヒョウタンから駒が出る。

一方、プリンスは第2回で圧倒的強さを見せつけたポルシェを仮想敵に開発した新鋭プリンスR380を。そして新たに個人参加の3台のカレラ6が話題をさらった。

第3回日本GPのポルシェカレラ6/滝進太郎:全長4113×全幅1680×全高980㎜・ホイールベース2300㎜・車重670kg・空冷水平対向6気筒DOHC 1991cc 210HP/8000rpm・5速MT。

レースはトップに立ったカレラ6が給油に50秒を費やす間に、15秒で済ませたR380がトップに立ち、それを急追するカレラ6がコースアウトでクラッシュ、R380の逃げ切り優勝となる。

一方、ヒョウタンから駒、というながトヨタ2000GT…耐久レース向きの強みを生かして無給油で走りきり、3位でゴールしたのだ。またダイハツのプロトタイプP3がマニアの注目を浴びていた。

第3回日本GPのプリンスR380/生沢徹:全長3930×全幅1580×全高1035㎜・ホイールベース2360㎜・車重620kg・プリンスGR8:直6ウエーバー40DCOE×3・DOHC1996cc・200HP/8000rpm・5速MT。

第4回はプリンスと日産の合併でプリンスR380は日産R380Ⅱとなり、対戦相手は個人参加のカレラ6で、生沢、瀧、酒井の3台。結果はR380Ⅱとの一騎打ちになった生沢のポルシェ6の優勝で終わった。

ちなみに、1967年、日産R380Ⅱは茨城県谷田部高速試験場の周回コースで、国際記録樹立に挑戦する。実際には、第3回GP開催が空白になった65年に谷田部で挑戦し、50km/230.51km/h~200マイル229.18km/hの記録を樹立したのだが、当時谷田部はFIA未公認だったので日本記録に止まった。

が、再挑戦の67年は晴れて公認コースとなり、国際記録樹立となる。その記録は、50km/256.09km/h、50マイル/255.37km/h、100㎞/254.67km/h、100マイル/252.44km/h、200㎞/251.99km/h、200マイル/251.22km/h、1時間250.98km/h。

(車屋 四六)

 

車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち」「懐かしの車アルバム」等々。

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