片山豊よもやま話-13

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さて渡米した片山さん、アメリカでブルーバードなんて名はインパクトがない、ましてスポーツカーにフェアレディなんて女々しい名前は駄目。日本名は子音が多すぎる。爆発音が多い母音でと考えたら「ダットサンがあるじゃないか」で、米国で販売する日産車の名を、全てダットサンで統一することに決めたという。

片山さんが渡米した頃は1959年誕生のブルーバード310の時代:写真は日本ダットサンクラブ会員の310/後方にダットサン・ピックアップが見える。

日本で一部専門家が「アメリカ人はダッツンと呼ぶ」と、まことしやかに書いているが「馬鹿なこというんじゃない。ちゃんとダットサンと呼んでるよ」とオトッツァンは笑っていた。

一方、社命は「アメリカで市場調査をしてこい、余計なことをするな」だったが、調査は自動車専門紙の付録「全米輸入車統計」に適当なコメントを付けて送ってたとよ、笑っていた。

梁瀬さんの入れ知恵もあり、市場調査も進み、いよいよ販売するには販売代理店が必要となった。が、ここは良さそうと既存の代理店を訪問するが、まるで相手にしてくれない…日本とアメリカでは販売店に対する扱いがまるで違うことを知った。

1963年にブルーバード410が登場すると、選手交代し高速性能も向上、売上げも伸び始めた。ちなみに410は片山さんが道をつけたイタリアの巨匠ピニン ファリーナのデザイン。

日本のメーカーは代理店が大切だが、アメリカでは常に上から目線で「代理店をやらせてやる」という態度に終始する。アメリカで代理店を希望すれば、会社規模、資産、経営状況、工場規模、特に銀行の評価など入念に調べてから「偉そうに可否を決めるんだよ」と。

片山さんは、まず既存の代理店を一軒一軒回ることから始めたが、ほとんどが門前払い。輸入車ディーラーでは話しは聞いてくれてもそのまんま、という状況が続いた。そこで片山さんは「そうだ代理権などには無縁とあきらめの中古車販売業者があるじゃないか」と気が付き、戦術転換をした。

が、代理権には興味を持つが、日本車ではと二の足を踏む。で「売れたら代金をくれ、そしたらまたクルマを届ける」というと「それなら」と応じてくれる業者が出始めた。で、2台で訪問しては、1台置いてくるという商いを始めた。

また、若者達は、通学や遊びにピックアップトラックで走り回っているが、アメリカ製大型車ばかり。そこに目を付けた片山さん、荷物は遊び道具ばかりだから大型車は不要「こいつはフロアシフトだからスポーツカー、安くて燃費も良い」といって売ったよと笑っていた。

努力の甲斐あって、少しずつ売れ始めた。代理店の看板を掲げて喜んでいた中古業者の中には熱心に売り「成功してハリウッドに豪邸を買ったり、大きなヨットを買ったヤツもいた」と。

「自動車メーカーには儲からなくても良いスポーツカーが必要」は、片山さんの持論だが「スポーツカーは速い必要はない。楽しくスポーティに走りが楽しめれば良いのだ」という。

が、フェアレディは純然たるスポーツカーである。フェアレディなど女々しい名前は駄目。で、ダットサン1500と名を付けて、レースで勝てるようスポーツキットも製作販売した。

1968年型フェアレディSP1500日本グランプリ優勝車:GP不参加表明の日産は嫌々アメリカ製キットでチューニング/優勝後違法改造とイチャモン付いた低い窓も、米国純正市販品とわかり却下された。

そのキットで田原源一郎がSP1500を改造して、第1回日本GPで大金星を稼ぐ話しは何度も書いたから省かせていただく。

 

車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち」「懐かしの車アルバム」等々。

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