昭和30年代、ひょうきん目玉のロードスターが人目をひいていた。その顔つきからフロッグアイ、日本ではカニ目と呼ばれたライトウエイトスポーツカーで、オースチンヒーレイ・スプライトが正しい氏名である。
自動車評論家の草分け、AJAJ(日本自動車ジャーナリスト協会)の創立メンバーで、後に会長も務めた池田英三も、ヒルクライムやジムカーナを楽しんでいた。
昭和30年代は、日本全体が未だ貧しかったが、高価な外車の中では比較的安く、買いやすいスポーツカーだった。が、カニ目は貧乏国目当てではなく、世界最大のスポーツカー市場のアメリカ向けに開発されたものだった。稼ぎが少ない若者、アルバイトで金を貯める学生、そして裕福なマニアの2台目、3台目などが目当てだったと聞く。
スプライト誕生の1958年は昭和33年、スバル360やミカサツーリングが誕生した。話題は東京タワーの完成だった。正式名称、日本電波塔の333mの高さからの電波発射で、関東一円が受像可能になった。
当時の人気番組、月光仮面がラジオ東京の電波塔から発信されていたというように、それまでのTVは、各局自前の電波塔を持っていた。ちなみにTV受像器の全国保有台数が100万台を突破したのも、この年である。
誕生した2座席ロードスター、ヒーレイ・スプライトは、コストダウンのためオースチンA35からの部品流用だったが、SUキャブ2連装で35馬力から45馬力に強化されていた。開発者ヒーレイ親子は大のスポーツカーフリークで、WWⅡ以前からのバックヤードビルダー(いわゆる裏庭でクルマを手作りする連中)で、終戦の45年にライレイ2.4ℓエンジンのスポーツカーを開発販売したのが、本格的スポーツカーメーカーとしての活動の始まりとなった。
50年にナッシュ6気筒3.8ℓ搭載のナッシュヒーレイの完成で親子が一躍有名になったのは、レーシングカーもどきの姿がアメリカで人気者になったおかげだった。
52年のロンドン自動車ショーに新型を出品した。オースチンA90アトランティック・スポーツ用2.7ℓ搭載のヒーレイ100(この100は100マイルの実力を誇示したもの)。当時のライトウエイトスポーツカーで100マイルは自慢の種になる性能だった。同様にジャガーXK120も120マイルを誇示した名称である。
私はこのヒーレイ100で、第1回JAF公認長岡ヒルクライムで優勝したことがある。とにかく100はアメリカ市場で人気が出て、その余勢をかって開発したのが、ヒーレイ・スプライトだったのだ。カニ目は、MK-Ⅱに進化するまでに、4万8999台も売れたことでも、人気のほどがわかろうというものである。
(車屋 四六)
車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち」「懐かしの車アルバム」等々。