オヤジは役者だった。

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私のオヤジは、大正昭和初期を活躍した名優澤田正二郎の弟子で、芸名は根本淳。初代水谷八重子と共に新派で活躍し、映画やNHKラジオなどにも出演している。明治30年生まれ。麻布六本木で江戸時代からの老舗竹皮屋の三男。若い頃は裕福だったようで、最近見つけたオートバイに颯爽と跨がる写真には、大正9年とあるから23歳の頃だ。

トライアンフH型/1915~23:単気筒OHV・4サイクル・499cc・4馬力/前部中央ヘラ状の板は箱形懐中電灯(単一電池二本入)を差し込む板で自転車部品の流用かも。

このオートバイは? と思ったが手元の資料にない。ここぞと思う友人に聞いてもわからない。で、戦前二輪大国のイギリスと的を絞り、知人の英国人ブライアン・ロングに尋ねたら「トライアンフだよ」で、一件落着した。

1907(明治40)年創業のトライアンフ社は、08年マン島TTレースに優勝。WWⅠではイギリス軍に3万台余も納入というイギリスきっての名門だ。写真のH型は、1915(大正4)年から1923(大正12)年まで作られ、信頼性が評判だった。

「浅草ナカムラ」の刻印から浅草で販売された俳優ブロマイドだろう:カポック型救命胴衣から国際劇場での飛行兵の役だったのでは/昭和14年。

次の写真は飛行兵姿の役者ブロマイド/昭和14年/浅草国際劇場公演だろうか。WWⅡ開戦前だから日中戦争の物語だったのでは。

3枚目は、昭和17年、麻布十番の自宅の居間で、趣味のカメラの手入れをするオヤジ。自身で現像焼き付けもするほど写真が好きだった。カメラはWWⅡ以前のドイツ製ライカだ。

昭和17年、麻布十番の自宅でライカの手入れ中。E型は交換レンズ型で35、50、135㎜が発売された。なお距離計内蔵連動型はD型から/1932~40年。

拡大しても不鮮明でカメラ細部が判らないが、レンズは沈胴型のエルマー50㎜/F3.5のようで、上部には後付けの距離計がある。A型は後着け距離計が縦置きで、水平になるのはライカ初のレンズ交換式C型(1930〈昭和5〉年~33年)からだがボディーは黒のみ。で、写真のライカはC型とほぼ同仕様のE型(1933年~40〈昭和15〉年)に、35年に登場したクローム型ということになる。昭和10年頃に買ったものだろう。

値段は不明だが、昭和14年頃にエルマー50㎜レンズ付き820円、ズマール50㎜付き1200円とある。1930年代、ライカ1台で小さな家が1軒買えるといわれていた。小さな家とは500円ほど、1000円あれば東京で土地付き一戸建てが買えたと聞いている。

戦争前、満期3000円の生命保険に入ったオヤジは、生きて満期になれば長屋が1軒、老後の生活には困らないと言っていたが、満期が敗戦後の昭和20年代半ばで、満期返戻金額は額面のまま。生活費の1カ月分にもならず「もう保険は嫌だ」と、二度と生命保険には入らなかった。

ライカを買った頃のオヤジは役者の全盛期だから、結構な稼ぎがあったのだろう。大好きだったライカ、自慢のライカはどうなったのだろうか。たぶん戦後の苦しい時代に食べ物に変わってしまったのだろうと思っている。

(車屋 四六)

 

車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち」「懐かしの車アルバム」等々。

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