片山豊よもやま話-18

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単なる荷物車だったダットサントラックだが、渡米した片山さんは、海岸でピックアップトラックで遊ぶ若者を見て、「楽しい運転ができればスポーツカーだよ」「見ろこいつはフロアシフトだ、楽しく遊んでくれ」と、難攻不落の米国市場の一角への参入に成功した。

片山さんがサインを書いて、東京のフェアレディZ開発のスタッフに贈った大好きなZ旗/サインの頭にオトッツァンの大好きな言葉「快走」の文字が。

世界のレベルからは劣る、ダットサン(ブルーバード310そして410)で、徐々に売り上げが伸びれば、東京への進言要求が通るようになり、完成した510で大成功。続く240Z(フェアレディ)で決定打を放ち、米国市場にダットサンのブランドと信頼度を確立した。この2台は、510が1970年日産念願のサファリラリー優勝。翌71年には240Z優勝で、2台は基本的に優秀だったことが証明された。片山さんの着眼点・先見の明・指導力は確かだったのだ。

帰国して暇になったオトッツァンがある日「社長用社宅に買った屋敷を安く売ってしまった…」と、アメリカ社会ではクルマ、家などが身分相応でないと信用されない。また、自宅はパーティーが多く来客を泊めるから、日産社長にふさわしい家が必要で買ったという。

ダットサンが売れるようになってから腕時計も買った。公私混同が大嫌いだからもちろんポケットマネーで3000ドル。ティファニーのロゴ入りWネームのロレックス。今では珍品らしく、90年代だったろうか「ティファニーが買戻しに来たよ」「新しい時計+2万ドルと提示されたが断ったよ。時計で儲けてもしょうがない」と笑っていた。

晩年の親分と子分=オトッツァンとケン坊。箱根で新車試乗中に一休み。

さて、アメリカの風習わからず、常に東京を気にしている片山さんの後任日本人幹部は、25万ドルで買った屋敷を有効活用せず50万ドルで売却した「少し待てば100万ドルで売れたのに」と笑っていた。渡米して泊まった多くの日産社員は帰国すると「片山は調子に乗りぜいたくしている」と報告し「片山の豪邸」との陰口も生まれた。

1995年、佐藤健司ことケン坊から電話で「オトッツァンとアメリカに行ってくるよ」。ズィー(Z)カークラブ創立25周年記念祝典開催のジョージア州アトランタに招待されたという。Zカークラブは全米に40あり、会員6000人余。

「長年ご苦労さん」とプレゼントしたジョニー・リナード元秘書が大切に愛用している在米時代の片山さんの愛車240Zに再会してご機嫌のオトッツァン/多分アトランタで。

祝典に先立ち、壮大なZカーリレーが企画実行された。それはアメリカの西に位置するソルトレイクを出発して東まで。そこを折り返して西に向かい、再び折り返し全米をZに走り、ゴールがアトランタ。リレー参加車延べ1万8000台、総行程1万6000㎞を超える壮大なリレーイベントだったそうだ。

アトランタの記念イベントは盛大で一週間続いたそうだ。「オトッツァンが壇上に上がったら『Mr.K』と全員総立ちのオベーション。そりゃ凄かったよ」とケン坊がいっていた。アメリカではいつの頃からか、ミスター片山がミスターKになり、日産退職後もアメリカ国内を移動中の機内でGM役員が近づいてきた時も「アー・ユー・ミスターK」だったそうだ。またアメリカ全土のZカーマニア達は「Father of the Z car」と呼んでいるともいっていた。

 

車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち」「懐かしの車アルバム」等々。

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