片山豊よもやま話-12

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日産から辞令を受けた片山さんは、1960年/昭和35年3月に渡米した。当時のアメリカ人は日本車などに興味がなく、売るに売れないので、トヨタの米国法人は休眠状態だった。「トヨペットという名前を米国人はトイペットと覚えて印象を悪くしていたんだ」とオトッツァンはいっていた。

当事、日産車の輸入権は東部が三菱商事、西部が丸紅で、片山さんはカリフォルニア中心の西部に配属された。丸紅は「クルマが売れないのに手形決済がくる何とかしろ」というが、片山さんはそんなつもりで米国に来たのではなかった。

オトッツァンの念願は、ダットサンを沢山売り、日産の知名度を上げることだった。一方、売れないのに販売権を離さない商社は、いずれ売れたら眠り口銭をという、権利確保だったのだろう。

それが目的か、たまたま一軒の契約代理店を訪ねると、まるで売る気がなく「草が生えた裏庭に新品のダットサンが錆びて放置されていたよ」…そこも権利確保だったのだろう。

そこで調べ回ると、国策で輸出に拍車を掛けるイギリス車や、知名度が高いフランス、イタリア車も一時売れるが、すぐにジリ貧になる。原因を調べると、代理店主がブローカー根性丸だしで、メーカーから宣伝費を受け取ると、その金で遊びまわっているんだよと。

「日本では垂涎の的、トライアンフのスポーツカーが野ざらしというのも見た」といっていた。そんなところに、GM訪問途中の、大学以来の旧友・梁瀬次郎が訪ねて来た。

「アメリカでクルマを売るなら、唯一人気の輸入車フォルクスワーゲンを調べてなさい」。クルマを売るのに必要なのはアフターサービス。それがしっかりしていれば、安心して客が買うとのアドバイス。

20世紀末のある日の片山夫妻と梁瀬次郎:当日先輩と後輩二人の立場が逆転した/その時まで先輩と思っていた梁瀬次郎は、自分が後輩とわかり丁寧に頭を下げ、長年の非礼をわびていた。

そして、ロスの一等地に座っていたのでは駄目。郊外に倉庫を借りて部品をストックして、部品は心配ないと安心感を与えなければ代理店になる業者はいない、客も買わないとも教えた。

「そんなこといっても、日産は部品を送ってくれるはずがない」というと、ならば大きな倉庫を借り扉に鍵をかけ、中は部品で一杯といいなさい。「梁瀬さんなかなかの策士だよ」とオトッツァンは笑っていたが、なるほどと思ったといっていた。

本稿にたびたび登場する親友宮崎良樹の職場カリフォルニア州都サクラメントのトライアンフ販売店/1958年。こんな真面目な販売店もありSCCAの顧客も多かったといっていた。

早速、歩き回ってフォルクスワーゲンの状況を調査。自動車も置ける土地と倉庫を借りた。そこにDATSUNの大きな看板を立てようとしたら「高速道路を走るクルマの邪魔」と許可が下りない、残念だったよ」といったが、後日本社ビルを建てた時に、大きなDATSUNの文字を上部に掲げ、念願を果たした。

 

車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち」「懐かしの車アルバム」等々。

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