片山豊よもやま話-5

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日産に復職した片山豊=オトッツァンは、生産再開したダットサンの戦前型復刻型の時代遅れの姿が気にくわなかった。で、発動機再生工場で働く佐藤章蔵に目をとめ、戦前日産在籍の富谷龍一を呼び、カーデザインとクレイモデル製作技術を学習させた。

その後成長した佐藤は、毎日工業デザイン賞受賞のダットサン110/210や、ブルーバード310型のデザインを手がけ、日産退職後は独立して工業デザイナーとして活躍することになる。

さて、当時日産車の内装を請け負っていた老舗住江織物系列の住江製作所は、その縁で1951年に時代遅れの戦前型ダットサンDS-1をベースに、富谷龍一デザインのダットサン・スリフトを製作、姿がジープスターそっくりという人も居たが、評判もよく、デザイン賞も受賞することになる。

ダットサン・スリフトDS-2/1951:直4 SV/860cc・20馬力/富谷龍一開発/住江製作所製作。

片山さんには戦前からの夢があった…必要最低限の部品で廉価好燃費、カモメのように軽快に走る軽量小型乗用車だった。同じような構想を持つフランス人が居た。WWⅡ開戦直前に完成するもドイツ軍の侵攻でお蔵入り、戦後復活登場したシトロエン2CVは、片山さんと変わらぬ構想といえよう。

片山さんは戦後の復興期に適した車はこれだと、温めていた構想を富谷龍一に伝えたところ賛同を得て、住江製作所の手により車は完成、フライングフェザー=F/Fと名付けられた。フライングフェザーの名は、開発コンセプトに合わせたという記事もあるが、夢多きオトッツァンが戦前から意中にあり温めていた名前だったと聞いたことがある。

フライングフェザー:思い切り簡素な造り/一本ワイパー/ドア窓は横開き/懐かしいアポロ型方向器/カンバストップは2CVに同じ。

当時はオートバイの全盛時代だから、豊富な部品を流用すれば安くできると先ず考えた。試作はリヤカーのタイヤだったが、量産ではスポークを自転車屋が組んだオートバイ用になった。エンジンも二輪用なら選り取り見取りだが、最初の瓦斯電製145cc単気筒は非力と振動で落選。次ぎにメグロ250ccは良く走るが相性悪く故障多しで落選。と試した多くは振動騒音で全て落第…仕方なく空冷V型2気筒350cc・12.5馬力を住江が開発して、一件落着した。もちろんピストンや変速機のギアなど、使える部品はダットサンからの流用である。

開発試作中のフライングフェザー:運転席は体形から多分オトッツァンと思われる。

完成したF/Fは、梁瀬次郎が試乗し、販売もヤナセでということになった。梁瀬さんと片山さんは、慶大時代からの親しい友人だった。F/Fの発売価格は確か38万円。快適な廉価経済車だが、専門家の高い評価とは裏腹に評判はサッパリで、天下のヤナセをもってしても48台で終わりを告げた…フランスの2CVは大成功、日本のF/Fは不成功。自動車先進国の欧州と後進国日本庶民の車への接し方には大きな差があったのだ。時期尚早と云うべきか。

さて、日産社員が社外で自動車を造る…今ならとんでもないことをやらかしたサラリーマンだが、不思議なことにおとがめなし。歴代総理大臣が就任するとホワイトハウス詣でという構図には国民に明かせぬ秘密があるような気もするが、勘ぐれば片山豊と日産にも明かせぬ秘密があるやもしれぬと思っている。

 

車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち」「懐かしの車アルバム」等々。

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