太平洋戦争前の日産大型乗用車

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日支事変(日中戦争)が勃発した昭和12年/1937年、米国レイクハーストに定期旅客飛行船ヒンデンブルグ號が到着したが、係留作業中に炎上、世界を騒がす話題となった。この炎上の原因は、間接的だが米国。それはスペイン内乱でフランコ側に付いたドイツに怒り、ヘリュームガスの輸出禁止…仕方なく燃えやすい水素を代用したからだった。

ツエッペリンLZ129・ヒンデンブルグ號が大西洋横断し目的地レイクハーストで係留作業中に出火、死者36名の大惨事となった。

そんな世界が戦争という悲劇に向かう直前の37年、丸の内日産本社で日本初大型大衆乗用車の御披露目に、官・民・軍・報道など、各界5000人が集まった。大型乗用車は既にトヨタが発表していたので、日本初を名乗りたい日産は、大衆の二文字を加えたのだ…まさに日本的見栄こだわりである。

1938年型日産大衆乗用車/日産蔵:左奥に一部見えるプリンス1500セダンは昭和天皇が皇太子殿下時代の愛用車。

同じ日、発表した貨物自動車は、キャブオーバー型の姿が斬新だった。で、バス停で乗合自動車/バスを待っていて、キャブオーバー型が来ると「今日はラッキー」と思ったものである。

日産キャブオーバー型貨物自動車/日産蔵:三越の自家用車だが後部パネル部分に窓があれば子供の頃嬉しかった乗合自動車の姿そっくりで、戦中は背に釜を付けた木炭バスだった。

日本の船が**丸と呼ぶが、陸の乗り物は、二輪・三輪・四輪どれもが**號だった。ニッサン號は、全長4750×全幅1720×全高1750㎜・WB2794㎜・定員五名だが、前席の背から補助席を出すと七人乗りに変身するのは当時の常識通りで、米国製発動機を真似た直六サイドバルブは3670ccで85馬力だった。

その頃、乗用車の国産化は陸軍の念願だから、開発には援助便宜が与えられた。で、日産は経営不振の米国グラハムページ社の工場を丸ごと、工作機械から金型、図面まで買い取ったので、多少の手直しはあったろうが、ニッサン號は本来米国で販売されるはずのグラハムページだったのである。

定価4000円…米国自動車殿堂入りした片山豊の、昭和10年に日産入社時の初任給が70円、日雇い労務者日当1円70銭の頃だから、大衆車を名乗っても金持ちしか買えない乗用車だった。

話は変わり、日産號誕生の昭和12年に日本初の電気時計が誕生した。ゼンマイを捲かなくてすむし時間が正確というので人気者になったが、直ぐに売れゆきが急降下。当時、停電は滅多になかったが、周波数変動が激しく、正確に動かなかったのだ。

昭和12年、私が子供だった頃、支那事変が始まったとはいえ、お菓子も玩具も沢山あり、まだ世間はおだやかだった。一方で、軍需品関連の町工場がドンドン増えたせいで、電力不足が始まり、電圧降下や周波数変動が頻発したのである。

不正確になった電気時計の針は、ひたひたと近づいてくる戦争を示すバロメーターだったのだと、ちかごろ思うようになった。

 

車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち」「懐かしの車アルバム」等々。

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