フィアットから移籍したビットリオ・ヤーノは、アルファロメオの黄金期を生みだす立役者となる。GPで無敵を誇り、モンツァやミッレミリアを制覇するばかりでなく、スポーツカーや高性能ツーリングカーなどと、活躍はオールマイティーに及んだのである。
ヤーノは1891年生まれだが、生誕地がトリノということは、アルファロメオでの活躍が前世からの約束事だったのかもしれない。彼は早くから自動車技術者になるつもりで、1909年、伊ラピド社に入社、11年にフィアットに移籍する。
ヤーノは直ぐに頭角を現して、WWⅠ以後のレースメカニックとして活躍するようになる。当時フィアットは六気筒6ℓのティーポ804が好調で、GP優勝をはじめ多くのレースで活躍する中、ヤーノはレーシングカーの神髄を理解しノウハウを身につけたようだ。
そして23年アルファロメオと契約するのだが、それを示唆したのはバッツィだった。アルファのドライバーで活躍していたフェラーリが、トップと意見対立するフィアットのドライバーを「ウチに来ないかと」と誘ったバッツィが、上司と合わないが将来性のあるヤーノを引き抜いてはと、フェラーリに進言したのが切っ掛けとなった。
で、アルファは、ヤーノと共に付いてきた技術者達に、GPに勝てる車造りをと独立した開発部門を設立して開発を任せた。結果、完成したのがP2だった。
P2は驚異的短期間、僅か数ヶ月で完成する。そんな短期間に一流のGPマシーンを完成出来たのは、ヤーノがフィアットティーポ804の詳細を熟知していたからだと云われている。
P2の直8DOHCは、1987cc+ルーツ製スーパーチャージャーで140馬力/5500回転という髙出力を得ていた。そして25~29年155/馬力→30年には175馬力と進化しながら勝利を勝ち取っていった。
P2の初舞台は、24年の第二回クレモナ200哩レースだが、GPチャンピオンのアルベルト・アスカリの父、アントニオ・アスカリの操縦でいきなり優勝して、ファンを驚かせた。
P2は翌年も無敵を誇ったが、活躍は更に続き、実に31年迄フォーミュラリブレの世界で勝利を稼いだのである。
31年になると、P2は12気筒のティーポAにバトンタッチするが、こいつはヤーノには珍しい失敗作で、試作四台の後、32年に進化したティーポBに引き継がれる。これがP3である。
アルファ史上最高傑作と云われるP3は、以後トロフィーを稼ぎまくり、38年レースデビューのティーポ158にバトンタッチするが、その頃のレース場は、ナチの国家的援助を受けた、メルセデスとアウトウニオンが暴れ回っていた時代だった。
車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち」「懐かしの車アルバム」等々。