世界の走り屋のバイブル「シルバーフォックス」

コラム・特集 車屋四六
昔はグランプリドライバーと呼んだが、世界のレースを勝ち抜き、技を認められたドライバーにF1出場のライセンスが発給される。ということは一流中の一流に、更に{超一流}となると、長い歴史の中でも限られた数になる。
FISCOで私にサインをくれたジャッキー・スチュワート/27やアイルトン・セナ/41、M.シューマッハ/91も既に伝説中の人物だが、1933年生まれの筆者が、WWⅡ後の超一流を想い出すままに並べてみよう/数字は優勝回数。
私宛サインのあるジャッキー・スチュワートのブロマイド/於鈴鹿。
S.モス/16、A.プロスト/51、N.マンセル/31、J.クラーク/25、F.M.ファンジオ/24、J.ブラバム/14、G.ヒル/16、A.アスカリ/13、M.アンドレッティ/12、J.サーティース/6、J.ファリーナ/5、B.マクラーレン/4、D.ガーニー/4などが印象深く浮かんできた。
優勝回数だけなら未だ沢山居るが、上記は私の脳裏に焼き付いた魅力ある個性の持ち主達である。
グランプリドライバーと云えば、WWⅡを挟み戦前戦後を活躍した、ベンツのエース、R.カラッチオーラは超大者だが、同時代活躍のA.アスカリやF.ファンジオの優勝回数は戦後だけ。戦後となればたった1回だが、最長現役年数を誇るのがピエロ・タルフィだ。
ジャガーEのオーナーにコーナリングテクニックを指導中のPタルフィ/於村山工業技術院試験場。
なにしろ最初の優勝が1923年で、最後のミッレミリアをフェラーリで優勝が57年というのだからたいしたものである。
その間、マセラティでフェラーリと戦い、ランチャやアルファロメオで優勝を重ね、時にはファンジオの好敵手、ある時期はベンツに乗り、と輝かしい戦績の持ち主なのである。
彼は異名を持つ…シルバーフォックス…その由来は若い頃からの素晴らしい白髪。彼は現役引退後に書いた「ザ・テクニックofモーターレーシング」は、世界の走り屋のバイブルとなり、日本でも翻訳されてJAF出版から発売されている。
彼の走法は天才的と評されたが、直感的ではなく、緻密な計算で走る理論派だった。彼は64年の来日以来親日派となり、第二回日本グランプリではFIAから派遣されて名誉総監督に就任、当時ヨチヨチ歩きの日本のモータースポーツに貢献してくれた。
さらに64年オープンの船橋サーキットは、彼の設計監修だった。
中でも極めつけは、村山の工業技術院試験場でのレーシング講習会。彼はレーシングドライバーを目指す若者達に、一人ずつ直伝でドライブテクニックを指導していた。
NDC東京の有志がスバル360をベースに洒落で作った競争自動車・名付けてフォーミュラ・チキン。そのコクピットで上機嫌のPタルフィ/於鈴鹿サーキットのパドック。

 

車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち」「懐かしの車アルバム」等々。
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