フォードとセルデンの戦い

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ヘンリー・フォードといえば泣く子も黙る大衆車王だが、高級車も造ったし、レース活動にも熱心だったことはあまり知られていない。そもそもフォードの試作成功は1896年と記録にある。

20世紀初頭、フォードはリーランドと共に創業したデトロイト社でランナバウト車を開発するが、リーランドとは意見対立で退社し1903年/明治36年にフォード社を創業。で、開発した最初のA型がリーランドのランナバウト(キャデラック)に似ていたが、理由は納得出来よう。

H.フォードは頑固一徹、思想は保守的が通説だが、実際には斬新で「車の品質を証明するのはレースの好成績が早道」と、当時市場トップのウイントンに挑戦、時速147㎞の記録を樹立している。勿論その記録は、カタログに載せられているが。

05年フォードは$2000の高級車B型を発売し、翌年には$2800もする豪華高級K型を発売するが、フォードの念頭にあったのは廉価大衆車だった。で、誕生した廉価版がN型だが、何故かN型と高級K型の狭間を埋めるT型を開発する。

ちなみに、高級なK型はH.フォード生涯一度の失敗作と云われているが、T型は好評で世界大衆車時代の始まりとなる傑作であることは周知の事実だ。またT型は世界初の流れ作業による大量生産車で、当初$850だった値段は、最後には$290にまで下がり、低価格による大衆車革命を起こしたのである。

1914年頃のフォードT型ツーリング$500~600/トヨタ博物館蔵:ヘッドライト/アセチレンガス

その頃、米国自動車業界は、セルデンの特許という頭痛の種を抱えていた。これは四輪車を発動機で走らせるという曖昧なもので、自動車と名が付けば全て5%の特許料を払えというものだった。

自動車は価格の5%を特許使用料として払い、1台毎にプレートを貼る必要があった/トヨタ博物館蔵

実際には仲良し組合みたいなものが生まれ、会員は低料金で、法廷闘争費用を考えると会員になった方が得という仕組みだった。

これに一社戦いを挑んだのがフォードで、8年間の紆余曲折のあと、4サイクルは除外というお墨付きで勝訴、以後米国自動車業界が4サイクルで発展する一因となった。

さてT型で昇り調子のフォードは、レースでも活動を続けていた。写真のレーシングカーは、ドイツのロッソビアンコ自動車博物館で撮ったものだが、無責任だが経歴や諸元は不明ということをお許し願いたい。T型のヘッドライトがアセチレンから電気に変わったのが14年頃だから、年式はその辺りだろう。

1914年頃のフォードT型ツーリング$500~600/トヨタ博物館蔵:ヘッドライト/白熱式電球

オーナーの用途はロードゴーイングレーサーだったのだろうか、WWⅡ頃まで日本でも使われていた、ゴムの手押しラッパ型警報機がフロントウインドー上部に装着されている。

結局、大量生産方式開発に成功し、大衆車革命をおこしたフォードT型は、1908年に生まれてから、シボレーに追い上げられてやむを得ずA型にフルモデルチェンジするまでの27年まで造り続けられた。そのA型は、半年ほどで急ぎ開発されたが、こいつもホームランをカッとばすのである。

ちなみにT型が完成した時Hフォードは「この車は完璧・もうモデルチェンジする必要は無い」と云ったそうだ。

車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち」「懐かしの車アルバム」等々。

 

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