WWⅡが終わり1960年代迄、そうベトナム戦争の泥沼に深入りするまでの米国は、世界最上、豊かな国だったと思う。
世界最大の自動車生産国アメリカの乗用車は、メッキで光輝き、各社競争で年々大型になり、馬力も増大していった。そんな栄華とは裏腹に、戦争前は多種多彩だった乗用車メーカーに、戦後の熾烈な競争による淘汰の波が押し寄せ、合併統合を繰り返しながら消えていった。
で、勝ち残ったのがビッグスリー、GM、フォード、クライスラーだった。その勝ち組のそれぞれには、豪華なサラブレッドが頂点に座っていた。フォード=リンカーン、クライスラー=インペリアル、そして最も輝いていたのがGM=キャデラックだった。
そもそもキャデラック社は、デトロイトの銀行家四人が1902年に創業して、開発を担当したのがH.フォードとH.M.リーランドだったが、意見の相違でフォードは退社してフォード社創業。
いずれにしても完成した車は高精度高品質だった。その工作精度が認められたのは、1908年の第一回サー・トーマスデュオトロフィー500マイルレースだった。参加した3台のうち1台が一回故障しただけで全車完走。主催の英王立自動車倶楽部/RACが分解検査をしてビックリ…異なる形式の3台の部品が互換部品だったからだった。
高級車街道を順調に走るキャデラックは、技術面でも最先端で、1911年には世界初電気スターター採用で女性老人を危険な始動作業から解放、1915年米国初V8を、1930年米国初V16を搭載と、常にパイオニアとして米国自動車業界を牽引したのである。
今回は、そのキャデラックがフルモデルチェンジした1954年から56年迄の話である。当時は、廉価版62シリーズ、高級な60Sシリーズ、八人乗りリムジン75シリーズに分かれていた。
54年型で先ず目を引いたのは、ラップアラウンドウインドーと銘打った両サイドまで大きく回り込んだ前の窓、ピラーがない開放的なツードアハードトップ。フォードア型も登場し、その抜群の開放感は見事なものだった。
伝統の格子型ラジェーターグリル、砲弾型バンパーから伸び伸びとした直線でテイルまで、堂々の姿は正に高級車の風格だった。ちなみに左側尾灯の後部を押すと、ポンと赤いレンズが跳ね上がり給油孔が顔を出す仕掛けが面白かった。
粛々と音もなく廻るアイドルから踏み込めば一瞬にして脱兎のごとく加速するV8の285馬力よりも、大排気量5834ccの強大なトルクの影響が大だったろう。ちなみに変速機はハイドラマティックATか3MTでコラムシフト。パワーステアリング、パワーブレーキ、パワーウインドー、自動選局高級ラジオなどが標準装備だった。
この米国を代表する高級キャデラックが大衆車並みに量産されるのも米国らしく、56年型はモデル末期にもかかわらず、年間総生産量が何と15万3433台というのだから、昔の人なら「恐れ入谷の鬼子母神」などと脱帽したはずである。
車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち」「懐かしの車アルバム」等々。