1967年にカナダ建国100年を記念して、モントリオール万国博覧会が開催された。その未来都市パビリオンに、イタリア政府推薦で登場した一台のスポーツカーに観客の目が集まった。
出品はアルファロメオで、博覧会にちなみモントリオールと名付けられていた。その姿で一番の特徴はバンパーがないスタイリングだった。当時の常識では車にはバンパーという時代だったが、バンパーのないデザインは、デザイナーにとり実現が難しい課題で、挑戦した何台かは登場していたが、成功しなかった。
が、モントリオールはその難しい課題を見事な調和で実現していた。その作家がカロッツェリア界の巨匠、ベルトーネと聞いて、さすがと納得したものである。
前から見ると、上半分がルーバーに遮られたヘッドライト、ボンネット上のNACAダクト、後部ピラーの空気孔などが特徴だが、やはり全体の姿の見事な調和に見惚れたものだった。
モントリオールの諸元は、全長4220×全幅1675×全高1205㎜・WB2350㎜・車重1295kg・V8DOHC・2593cc・230馬力/6500回転・最高速度220㎞。イタリー車にしては、5MTの直立した短かいシフトレバーが戦闘的雰囲気をかもし出していた。
モントリオール博に登場したのは、博用のプロトタイプだったが、世界中から注目を浴びたのに応えて、生産型モデルを出品したのが、1969年のジュネーブショーだった。
もちろん観衆の注目を浴びたのはいうまでもないが、実際に売りだしてみると売れゆきは予想外で、75年迄に3500台ほどが出荷されたに過ぎなかった。
当時の日本はスーパーカーブームの時代で、輸入エージェントの伊藤忠自動車が、10台ほど輸入したと聞いている。が、大卒初任給が4万円前後の頃、770万円という値段は、高嶺の花だった。
もっとも70年代後半から、日本では池沢さとしのマンガ{サーキットの狼}などで火が点いたスーパーカーブーム時代とあって、ランボルギーニ、ポルシェ、フェラーリなどと共に各地で開催されたイベントで、子供達憧れの的になった。
初めて街中で見たのは、89年レクサス試乗で訪れたフランクルトのホテルケンピンスキの駐車場で、真っ赤な姿に暫く見惚れていた。
日本でスーパーカーブームが終わり、いつの間にか忘れていたら、21世紀に入ってからの晴海の駐車場で見掛けて、懐かしく暫く眺めていた。
車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち」「懐かしの車アルバム」等々。