ニュージーランドでボクスホールと隼に

コラム・特集 車屋四六

1998年頃のニュージーランド/NZには、日本の中古車だらけ。
関税が高いので輸入中古車が人気だが、日本製中古車は壊れないというのが人気の的だったようだ。
加えて走行条件が良く乾燥した空気のせいで車は長寿長持ちの土地柄らしく、骨董的車も沢山見かける。写真の車も、齢50才とは思えぬ良コンディションだった。

美しい湖畔の街ワナカで出会った1950年代初期のボクスホール・ベロックス。

ボクスホールは1903年創業の英国の老舗だが、1923年にGM傘下に入り、WWⅡ後の新型車が写真のボクスホール・ベロックス(51~57年)で、当時としては斬新なOHVの直四で、1442cc/35馬力のワイバーンと、2275cc/54馬力のベロックスがあった。この写真は、クイーンズタウンから120㎞の美しい湖畔の町ワナカで撮ったものである。

ワナカへの目的は戦闘機博物館で、其処ではからずも出会ったのが隼。海軍の零戦とは異なり、隼は世界でも5機ほどしか存在確認がなく幻の陸軍一式戦闘機で、しかも飛べるのはこれだけ。
が、翌年アメリカの金満コレクターが買ってから門外不出と云われているので、日本人で見たのは私が最後かも知れない。

世界的に有名なのはゼロ戦だが、私が小学生だった戦争中は隼の方が有名で、どちらもWWⅡ緒戦では世界無敵の戦闘機で、米軍の戦闘マニュアルには単機格闘戦が禁じられていたほど。
♪エンジンの音ごうごうと隼はゆく雲の果て…♪は日本中の小学生から大人までが歌っていた。

ワナカの戦闘機博物館で出会った{隼}一式戦闘機の初期型。奥にヴォートシコルスキーF4Uコルセア戦闘機/米。

隼はノモンハンでソ連イ15型戦闘機を撃滅した陸軍97式戦闘機の後継機として中島飛行機が開発した傑作…ゼロ戦と同じ空冷星形14気筒・3万7500cc/950馬力・最大速度495㎞・7.7㎜機銃二門だが、昭和18年登場の二型では1150馬力/515粁・12.7粍機銃二門に強化され、プロペラも二枚から三枚になるので、写真は一型と云うことになる。

開戦後、シンガポール、ジャワ、ビルマなどを転戦している頃の隼は無敵だったが、ラバウルの頃になると速度や火器で劣勢になり、最終型では1250馬力になるが、レイテ辺りからは特攻機という運命が待ち受けていた。

隼を有名にしたのは軍神加藤建夫中佐。英ハリケーン戦闘機、米カーチスP40戦闘機を連日撃墜し最後に戦死。昭和19年映画{加藤隼戦闘隊}の主人公に…東宝・山本嘉次郎・藤田進・大河内傳次郎・高田稔・灰田勝彦・空中戦特撮は円谷英二と戦後なって知った。
軍神=日本軍は活躍後戦死すると神になるとして軍神と称した。山本五十六連合艦隊司令長官も軍神で国葬だった。

余談になるが、中島飛行機は戦後解体され富士重工に。栄→誉2000馬力開発の中川良一は戦後プリンス自動車創業。日産と合併後副社長。航空発動機では世界最高の技術者だった。

 

車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち」「懐かしの車アルバム」等々。

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