【車屋四六】R7はいすゞのレーシングカー

コラム・特集 車屋四六

前の話(ダイハツのPシリーズ)で、第一回、第二回が鈴鹿で、一年のブランクの後、第三回は富士スピードウエイと書いたが、前二回の好況に目を付けて当時赤字経営のJAFが欲を出して、サーキット側とコース使用料で折り合いが付かなかったのが原因だそうだ。

で、65年、新装なった富士スピードウエイで開催。以後順調に回を重ねていく。また熱気に誘われ、日本各地にサーキットが出現、年間を通じて多くの行事が開催されるようになる。

当初“アマチュアのお祭り”と不参加を表明した自動車工業会、その紳士協定を守った会社、破った会社、いずれもPR効果の高さを認識して全力投球をするようになる。

メーカーが本腰入れるようになれば、当然のように本格的レーシングカーが開発され、ツーリングカーレースから興味の中心がそれに移っていった。

その始まりは、プリンスR380とポルシェの対決。それに絡むトヨタ7、ダイハツP3、そして外車ローラなど続々と登場。デットヒートが繰り返され、ファンの興奮が煽られたのである。

第五回日本GPはTNTの対決と騒がれた。日本初プライベートチーム結成の滝進太郎vs日産に、トヨタも二座席レーシング・トヨタ7で乗り込んできたが、優勝は怪鳥と異名の日産R381。

GPスタート

第五回の興奮TNTの対決は、第六回に引き継がれる。トヨタ7の5L・V8は530馬力にアップ、滝レーシングはポルシェ917&908+ローラT70と世界のトップマシーンを、日産はウイングが禁止されたR382。そんなところに花を添えたのが、いすゞの新マシーン。

いすゞは、二種類のミドシップマシーンを開発して、2台ずつ計4台を投入した。R6は既にツーリングカーで定評のベレットGTをベースに1.6L・DOHC180馬力。そしてローラMK-Ⅲを参考にシャシーとサスペンションを開発、セミモノコックボディーを載せた、いすゞR7である。

いすゞR6

興味のエンジンは、シボレ―5L・V8DOHCのムーンチューン。Wチョーク・ウエバーキャブ四連装で、500馬力前後が下馬評。が、期待を裏切って勝利を手中にすることは出来なかった。

熟成期間が無く未完成部分もあったようで、耐久性にも不安を抱え、120ラップレースの89ラップ目で、15位、16位。一周のラップタイムで、R382と10秒差、トヨタ7と6秒差だった。

が、チューニングが進んだ秋の日本カンナム200マイルでは六位入賞。翌年春の鈴鹿500キロレースでは二位と四位に入賞と実力を発揮したが、いすゞR7の活躍は周囲の期待をよそに、それで終わってしまったのが、返すがえすも残念だった。

それから10年ほどが経って、もうR7の事など忘れて藤沢工場を訪ねたことがあった。ふと工場敷地の片隅を見ると、雨ざらし状態でレーシングカーが放り出してあった。遠目にR7のような気がして寂しい思いをしたものである。

いずれにしても、1968年=昭和43年は、日本のモータースポーツが最もエスカレートした年で、ビッグパワー対決が頂点に達した頃であった。

そんな68年の日本は明治100年記念。いざなぎ景気で日本は好調、強盗事件でさえ三億円とエスカレートして国中が驚いた。日本初高層ビル霞ヶ関ビル完成。学園紛争が頻発したのも生活にゆとりが出て考え批判するようになったから、と云う学者も居た。