徳川幕府倒れて明治100年は1978年/昭和53年、日本は敗戦後23年を経過していた。
ボーイングB29爆撃機の絨毯爆撃で、日本の各都市は焼け野原になり荒廃、住む家もなく食べるものもなく放心状態の人が沢山居たが、徐々に気を取り直し、本来の勤勉さを取り戻した大人達は懸命に働き始めた。結果、イザナミ景気を経て、日本はバブルに向けて景気上昇中だった。
が生活に不満が無くなると別の不満が生じるようで、東大以下全国100を越える大学の一部学生が立ち上がり、学園闘争が世間を騒がせていたのも、昭和43年頃だった。
その頃マツダは、バンケル&NSUが開発に成功したREの量産実用化に苦心惨憺の末、世界の強豪が脱落する中で量産化に目処をつけ、67年にコスモスポーツ、68年ファミリアRE、70年ルーチェRE、71年サバンナRE、75年ロードペーサーREと、小型から大型までのREラインナップを完成、世界市場を目指していた。
勢いにのるマツダは、広島県三次にプルービンググランドを完成した。900m×740m×690m=一周4.4㎞の周回路は、マツダ自慢のREをイメージしたのかは知らぬが、三角むすび形だった。
私が初めて其処を走ったのは、米国市場を目指し完成発表したばかりの、サバンナRX-7と命名されたスポーツカーだった。
米国自動車殿堂入りした片山豊は「儲からなくてもいい象徴的スポーツカーが会社には必要」が持論だが、RX-7はその実践であった。
RX-7の目標は、米国市場を暴れ回るポルシェで、911は片山さんのフェアレディZに任せ、ポルシェ944を仮想敵に開発された車だったから、当然全ての性能で944を上回ったが、姿や質感などの差で、米国ではプアマンズポルシェなどと呼ばれていた。が米国のサーキットでは大暴れしたのである。
私がRX-7の試乗をした三次試験場も、あれから50年、今では工場や各種付属コースが生まれて当時とは様変わりしているようだが、当時は外部からは見えない山中に、REの心臓ローターに似た三角コースがある、長閑なコースだった。
斬新で格好良いRX-7の引っ込み式前照灯には開発者から聞いた秘話があった…開発中最高速度目標は時速200㎞だったが、試走最終段階で、あと少しというところで200㎞に到達しない。
そこで知恵を絞った苦肉の策が、目玉を引っ込めることだったというのだ。で、三次のテストコースで前照灯を出したり引っ込めたりすると、確かに最高速度領域では3~4粁上下するのを体験、引っ込めれば200粁に達して喜んだのを憶えている。
もう一つ、後部ハッチガラスは、944のようにワンピースにしようと思ったが、日本のガラスメーカーでは一枚で造ることができず、仕方なく三枚にしたのだと悔しそうだった。
車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち」「懐かしの車アルバム」等々。