ブルーバード510世界の檜舞台へ

コラム・特集 車屋四六

我々オジンにとって戦争はWWⅡや朝鮮戦争だが、中年以降になるとベトナム・湾岸・イラク戦争と違ってくるが、1945年WWⅡ終結で独立宣言したのは仏領インドシナ、今のベトナムだった。
が、ベトナムに未練を残す元宗主国フランスが戦争を仕掛けたが、ディエンビエンフー陥落で敗退しても戦争は終結しなかった。

反共が旗印の米国がチョッカイをかけ、徐々に深みにはまり混むのは御承知の通り…67年には、国民的英雄ヘビー級世界チャンピオンのカシアス・クレイの徴兵拒否も大きな話題となった。

一方で67年、平和な日本に誕生したのが傑作ブルーバード510で、日本の車造りが世界レベルに達し「日本車ココにあり」と世界に知らしめた傑作なのである。が、本来の目標は、410のスタイリング失敗で失った王座を取り戻す{打倒コロナ}だったのだ。

三角窓が消滅して、ロングノーズ・ショートデッキの姿は、ジェット機からの連想でスーパーソニックラインと名付けられ、ベンツと同じデフ固定のセミトレーリングアーム後輪独立懸架が評判に。で新開発の直四OHC・L13型とL16型の高性能と相まって、念願の王座をコロナから取り戻すことに成功した。

510の念願成就は王座奪回だけではなく、世界の檜舞台でも認知された。68年のサファリラリーでは、メーカーチューンのセドリックをよそに、試験的参加の市販車510・1600SSSが快走した。
残念ながら現地人の投石によるナビゲーター負傷で入賞出来なかったが、大きな注目を浴びたのである。

翌69年大会は510の活躍で、総合で三・五・七位入賞に加えてクラス優勝、メーカーチーム優勝と好成績の結果が、翌年の大会の大騒ぎに繋がるのである。

1969年英国RACラリーを快走するダットサン510型。

70年のサファリ、蓋を開けてみると参加者97台中、32台が510という様相になった。それはブルーバード510の安価・頑丈・高性能を、世界が認めた結果に他ならなかった。

結果は下馬評通りで、総合一・二・四位、クラス優勝、チーム優勝と、優勝を総なめで、410でのサファリ初挑戦以来、8年目に手にした完全制覇という栄冠だった。

サファリの完全制覇は、全世界に信頼と高性能を認知させるというボーナスも生まれた。もっとも当時ブルーバードの呼称は日本だけのもので世界ではダットサンだが、それを実行したのは元米国日産片山豊社長だった。

ダットサン(ブルーバード)510型の広告。

日産上層部とそりが合わない片山さんは、売れない米国市場なら自己退職するだろうと派遣された。彼は不評原因を追及し本社に提案するも受け入れられるはずもない。が、地道な努力とアイディアで車が売れるようになると本社も無視出来なくなり、結果誕生したのが世界的ベストセラーのフェアレディZやブルーバード510だったのだ。
「スポーツカーにフェアレディなんて女々しい名前じゃ売れるはずがないヨ」と云っていたのを想い出す。

 

車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち」「懐かしの車アルバム」等々。

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