第二次試作の走行試験は、実戦配備というまたと得難い試験場を得たことになる。主戦場のヨーロッパ戦線、そして太平洋地区の戦場に送られたジープの一台が、実は日本に来ている。
フィリピンに送られたバンタム60BRC-MK2が日本陸軍に捕獲され、トヨタに試作を命じて生まれたトヨタK10型5台は、御殿場演習場で試験後に合格、陸軍四式小型車として正式採用された。
四式だから皇紀紀元2504年=昭和19年ということになるが、実際に生産されることはなかった。勝った!勝った!の報道とは裏腹に、負け戦で物資不足で生産する余裕がなかったのだ。
一方米軍では、ウイリスMAが合格したが、大企業の裏工作があったようで「膨大な需要に対応不能」との理由で社運を賭けたバンタム社は降ろされ、発注はウイリスとフォードの二社に絞られた。
軍は部品の互換性を二社に強く要求した。が、フォードは互換可能の範囲で各部品に独自の工夫を凝らしたのが戦場では好評で、Fの刻印がる部品を実戦部隊は欲しがったそうだ。
さすが米国、結果的に二社の生産量は膨大で、終戦までの僅か4年間でウイリス=36万1239台、フォード=27万7896台、その合計は63万9235台に達した。別にフォードはGPA/SEEP水陸両用1万2778台も生産している。
分捕り品から5台のコピーを造っただけで量産出来なかった日本、彼我の工業力の差は歴然で、これだけ見ても日本が勝てる相手ではなかったのである。
ジープは世界中の戦場に送られ同盟国軍に、またソ連軍や支那軍にも貸与された。その後中国では、ライセンス生産で2000台を製造との記録が伝えられている。
いずれにしてもドイツ軍や日本軍が敗走するなか、先頭切って走ってくるジープは、世界的に知名度が上がり、車に興味のない人達も知る車の名前になったのである。
兵器としてのジープは、終戦でお役御免になったが、民間の作業用、釣り狩猟などの遊びに生きる場を見つけて、やがてRV分野で発展を遂げるのである。
ジープの名は戦後になりウイリス社が商標登録したが、やがて会社がカイザーフレイザー社に吸収され、更にAMC→クライスラー→ダイムラークライスラー→クライスラーと転々しながら、最後はFCA(フィアット・クライスラー・アルファロメオ)の元で強かに生き続けている。
最後に、ジープという名は実戦配備直後から通称になっていたが、その語源は未だに判然としない。多分これからも判らないと思われる。
車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち」「懐かしの車アルバム」等々。