片山豊よもやま話-3

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私昭和8年生まれ、子供の頃食べ物は魚も野菜も天然自然、大好きな菓子もチョコレートも豊富、世間はノンビリと思っていたが、実は帝国軍隊の力が増し戦争が近づいていた。
軍部は、開戦すれば輸入がストップすると自動車の国産化を奨励するが、財閥の三菱や三井はリスクを考え逃げ腰だった。が、日産コンツェルンが受けて立つ。当時の日本自動車市場は、1925年にフォード、36年にGMが進出、日本市場の大半を二分していた。

やがて1935年トヨタ、36年日産が大型乗用車を開発販売開始。同時に貨物自動車や乗合自動車のシャシーも。ちなみに乗用車の生産は支那事変(日中戦争)開戦で38年に禁止になり、日産は兵器生産に転向、43年には飛行機用発動機生産も開始する。

日産は軍の要望で、32年建国の満州国に満州自動車製造を立ち上げ、支那戦線での貨物自動車需要を大量受注するが、もちろん他メーカー、日本製シボレーやフォードも戦線に投入された。

東銀座八丁目昭和通りの三井銀行木挽町支店裏門前のMK自動車修理工場のボス川村さん。支那戦線自動車隊の修理担当で「古参兵がシボレーを取っちゃうから若い兵隊は不人気な日本製・・」戦場での故障は命取りだから日本製は不人気だったという。

車の故障は生死の分かれ目・中古でも故障が少ないと古参兵が好んだシボレー:戦地仕様の迷彩色塗装/飛行機や戦車など に愛国の表記あれば会社団体など民間からの寄贈兵器。

余談で、級友西村元一の父親は戦車隊だったようで、冬期の北満では夜蓄電池を暖房のある屋内に収納。またパイプやブロックの凍結破損防止で、水を抜いた発動機を更に不調音が出るまで空回しして水分をとばし、翌朝の始動に備えたと云っていた。

前回、満州自動車勤務を命じられた片山が社長に直訴し、東京事務所勤務で日本と満州往復と話した。今でも大企業のトップは雲の上の人、そんな風習が更に厳しかった戦前に社長に直訴とは、片山だからこその芸当だったろう。

森繁久弥が満州放送局のアナウンサーなのは有名だが、私の居回りにも満州帰りが沢山居る。また脱線するが、前話で話したMK自動車の大番頭格宮崎良樹=親友宮チャンは満州奉天一中。彼の奥さんは満州自動車の木沢さんの娘。私が大学生の頃入会した日本グライダークラブ/NGCで出会ったのが宮ちゃんとの馴れ初めだった。

当時宮チャンの母親は、日産車とシボレーの輸入権を持つ日通系大洋自動車の営業部長…戦後10年まだ男尊女卑の風習が残る日本社会で一流企業の部長職は、辣腕とはいえ不思議な存在だった。

NGCは二子玉川読売新聞飛行場が練習地。グライダーを100mほどに引き揚げるのは自動車曳航で、その車が故障した。で宮チャンは母親に頼んだら、肝っ玉母さんは、ショールームの新車シボレーをディーラーナンバーで貸してくれた。

ある時米国GMから出張命令が届く…クレームが多いのでツラが見たいという事らしい。当時日本人は敗戦コンプレックスで米国人の云いなりなのに、彼女は遠慮がない、それには理由が。実は彼女、米国生まれの二世で英語も達者、ビジネスでは米人と対等だったのだ。一方親会社の日通阿座上真社長に手腕を買われ、米国出張時には通訳と世話焼きという存在でもあった。

少々脱線しすぎたが、オトッツァンの満州勤務から、色々と繋がりの輪が広がる、縁とは不思議なものである。

 

車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち」「懐かしの車アルバム」等々。

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