1971年秋フロンテクーペ{モーター毎日}試乗記のため浜松に出かけた。ちなみに71年誕生の京王プラザホテル47階は、新宿副都心最初の高層ビルだった。街には♪私の城下町♪子連れ狼♪雨の御堂筋などが流れていた頃である。
小さな軽枠の中に伸び伸びとしたプロポーション。365cc三連キャブで37馬力…なりは小さいが走れば高性能、スポーツカーの資格充分と思ったら、翌年日本カーofザイヤーに輝いた。
当時の日本カーofザイヤーは今と異なり、老舗モーターファン誌主催で、10年間開催後、現在の主催団体に引き継がれたのである。
素晴らしいスタイリングも「ジウジアーロだよ」と聞けば納得。
が、後日日伊合作と知り二度感心…スズキにこれほどのデザイン力があろうとは思ってもみなかったからである。
当初ジウジアーロのプランは四人乗り軽自動車だったようで、実現していれば、日本初のミニバンになったと思われる。
当時の日本は軽の黄金期で、各社イメージアップでスポーティーカーを連発していた。ホンダZ、ダイハツ・フェローMAXハードトップ、三菱ミニカスキッパー、スバルR2スーパー、どれもがスタイリッシュで高性能だった。
で、基本のスタイルをジウジアーロから戴き、全高を一気に1200㎜に下げ、思い切った二座席クーペに仕立てたものだった。
{モーター毎日}71年11月号の私の試乗記を開いてみよう。
浜松で試乗車を受領、写真撮影と試乗を兼ね、登呂遺跡→久能山→三保→清水→東名で東京まで。4MTでレッドゾーン8500回転でアッという間に時速100粁到達するも、未だ加速を続け…以下省略。
当時の軽の実力としてはズバ抜けたもので、更に驚きはアクセル全開でトップギアのまま三島から御殿場までの坂を、時速100kmキープで登り切ったと絶賛している。
ちなみに69年開通した東名は未だ走る車も少なく、通行料200円の首都高に繋がり便利になったのも71年だった。試乗車は最上級のGXで45.5万円。未だ珍しかったラジアルタイヤで、ボンネットとフェンダーがFRPだった。
フロンテクーペは好評だったが、ユーザーニーズで2+2が追加されたのは、未だ発展途上の日本の自動車市場では「高い金払って二人しか乗れない」が理由だった。生まれた後席は10才位までなら、という窮屈なものだったが。
フロンテクーペの最後は77年だが、人気が落ちたのではない。拡大軽規格で550cc&ワイドボディーになった姿は、美しい姿のままだったが、何故かセルボと名を変えてしまった。さらにスポーツカー的元気さも失っていたのである。
車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支 離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格 審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち 」「懐かしの車アルバム」等々。