アストンマーチンに惚れたが

コラム・特集 車屋四六

プロのスポーツ選手は車好きが多い。現在は多種多様だが、昔日本ではまだ知名度が低いアストンマーチンV8バンテージに、野球の大選手大監督の落合博満が乗っているのを見たことがある。
さすが大物、目が高いと思ったら動機は単純で「007と同じ車ない?」と自動車屋に電話したのが始まりだったそうだ。

余談になるが、私は執念深いたちで、学生だった1950年ころ時計の世界一はバセロンコンスタンチンと雑紙で読み、以来想い続け手に入れたのが90年頃だった。また54年の車雑紙のグラビアのジャガーMK-Ⅶにビビッときて、中古を手に入れたのは10年後だった。

アストンマーチンに惚れ込んだのは、64年の神宮外苑~江の島ラリーで米軍将校のを見た時からだが、以来憧れても実現していないのも現実なのだが…現在85才、もう縁はなかろうと思っている。

そのラリー、江の島に着くと思いつきだろうが、そこらの藁束をパイロン代わりに立てて即席ジムカーナを始め、そこを疾走するアストンの姿は実にかっこう良かった。

ラリーのゴール江の島で即席ジムカーナに興じるアストンマーチン

その時のアストンは、55年迄生産されたDBシリーズのMKⅡ型。ちなみにDBとは、47年にアストン社を買収したトラクターメーカー、デビッドブラウン社の社名にちなんだものである。

DB社になって念願のルマン24時間に優勝するが、事業意欲旺盛なブラウンは、水商売、カジノ、雑紙ペントハウスにまで手を広げた結果、74年にあえなく倒産する。が、アストンは不死鳥のように甦る。米英カナダの熱烈ファンがシンジケートを組織、アストンラゴンダ社を名乗り活動再開する。

さて進駐軍将校のアストンは、2580cc・SUキャブ二連装、圧縮比6.5/105馬力と8.2/125馬力のうち125馬力。二種あるのは輸出先の燃料事情に対応する英国の知恵だった。

低開発国と先進国の燃料事情に合わせたもので、残念ながら当時の日本は後進国扱い。私のジャガーも180馬力でなく160馬力だった。写真のアストンが髙出力というのは、米軍キャンプではハイオクタンガソリンが買えたからである。

そもそもアストンマーチン誕生は08年。ライオネル・マーチンが、イソタフラスキーニにコベントリーエンジン搭載のスポーツカーで、アストンクリントンのヒルクライムに優勝したことで、生まれた車名がアストンマーチンだったのである。

もっとも会社は、22年にポーランド貴族ズボルスキーが出資してアストンマーチン社が誕生。が、25年レース中事故死で倒産すると、27年にベルテリの出資で活動再開。ベルテリはルマンに挑戦し、35年総合三位、ミレミリアで優勝と活躍。で、この時代の車がコレクターには好評だという。

が、レース活動の費用が嵩み、36年から貴族サザーランドに経営が移行するが、品質が落ちて、コレクターの評判が下がった。

そして、WWⅡ終戦で、DB社の登場となるのである。

アストンマーチンDB4GT・JET:カロッツェリア・ベルトーネの手に掛かればこのように様変わりする

 

車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち」「懐かしの車アルバム」等々。

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