昭和20年8月15日太平洋戦争が終わった頃、学童疎開先の栃木県岩舟村辺りを走るバスやトラックは背中の釜で燃やした薪で走り、隣の佐野市には薪のハイヤーも走っていた。
9月に東京に帰ると、走る車の大半は進駐軍の軍用車で、ウエポンキャリア、GMCトラックに大きな水陸両車も走っていた。乗用車の大半はジープで、戦時色塗装のフォードやシボレーもあった。
一方日本人の車は、相変わらず薪だが、ほとんどが戦火を免れたボロばかり、あとは自転車。2年ほどすると進駐軍兵士軍属家族のピカピカな乗用車が増えたが、我々には無縁のものだった。
ガソリン統制は戦後も続き、日本のハイタク、バス、トラックは相変わらず釜を背負っていた。が、ガソリンが買える大臣高級官僚や大企業経営者が戦前の黒塗りピカピカ乗用車で走っていた。
近所の逓信省次官は某宮家放出の36年型キャデラックV8。本宅を進駐軍に接収されウチの前に越してきた川崎さんは、戦時中軽井沢の別荘に隠したビュイック38年型とBMWオートバイだった。
敗戦後の貧乏経済が上向く切っかけが朝鮮戦争で、連合軍の軍需品調達と兵器修理、兵士がおとす金が莫大で、企業は元気を取り戻し、成金が生まれ、頭が3で識別されるナンバープレートの、いわゆるサンマンダイと呼ぶ外国人名義の車が増え始めた。
が、庶民は相変わらず自転車やスクーター、二輪。乗用車ならダットサン、トヨペットやオオタ、それにタマ電気自動車など。
が、昭和28年頃になると、戦争で忘れて居た贅沢がよみがえり、憧れは電化生活。当時の三種の神器は電気冷蔵庫・電気洗濯機・電気掃除機。NHKと読売テレビの放映が始まっても、1吋1万円の受像器は庶民には高嶺の花。公衆電話10円、風呂屋15円の頃。
TV人気は凄く、人気プロレスで力道山の活躍を見るために、街頭テレビや電気屋の店頭にファンが殺到して怪我人も出た。
読売の街頭TV用にヤナセが輸入した21インチTVは25万円。そこで自作を決心、オヤジを口説き神田秋葉原で集めた部品は10万円を超えた。完成し家族と最初に見たのが第一回紅白歌合戦だった。
沖縄は未だ占領下、六本木辺りも進駐軍兵士が闊歩していた昭和30年、通産省が{国民車構想}を発表した。
それは、最高速度100粁以上・定員4名・時速60粁で燃費30粁以上・大修理無しで10万粁以上走行可・月産2000台で価格25万円以下といった内容で、生産販売を政府が支援するというもの。
庶民が自家用車を持てるという期待は大きな波紋を生じた。昭和29年、本邦初の全日本自動車ショーの駐車場は自転車で一杯だった。自動車を持つ夢が膨らみ始め、自転車を漕いで集まったのである。
昭和33年スバル360、マツダ360クーペ、三菱500、36年パブリカと小型車が続々登場する。25万円以下の国民車には適合しなかったが、国民車構想がカンフル剤になったことは間違いない。
車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち」「懐かしの車アルバム」等々。