スポーツカーのマトラは既に世界から忘れ去られた存在だが、70年代に針を戻せば、自動車ファンには知られた存在だった。
当時の日本は、サニーやカローラ、ホンダN360などが登場してマイカー時代の幕が開き、日本グランプリの刺激でモータースポーツに灯がともり、各地でレースが開催されていたが、マトラが見当たらないのは日本の保安基準が原因と聞いた。
厚木基地の米軍将校が乗っている噂を聞いたが、占領軍が在日米軍と名が変わっても、戦勝国の治外法権健在で登録出来たのかも知れない。またエージェントの極東貿易が輸入したが売れなかったサンプルカーだったのかも知れない。
マトラ社とは、45年に航空宇宙兵器開発目的で創業のコングロマリットで、94年迄活躍した会社。51年欧州初音速突破機は同社製ジェットを搭載。有名なエクゾセミサイル、アリアンロケット、そして共同開発のコンコルドなど有名製品が多々ある会社である。
さて事の始まりは、マトラ社がWWⅡ前からマニアックな性能追求のあまり、高価になりすぎたスポーツカーでジリ貧状態のデュネボネ社を買収したことだった。
そしてデュネポネ社で販売中の高価不採算スポーツカーのジェットを、車造りの学習と割り切り、赤字覚悟で販売継続したのである。
このジェットは、世界初の量産販売のミッドシップカーだった。ロータス・ヨーロッパやランボルギーニ・ミウラを世界初と思っている人は、今日からはジェットと改める必要がある。
学習を終わったマトラ社は、67年のジュネーブショーでスポーツカーを発表。宣伝効果を狙ったのか有名な同社ミサイルM530にちなみ、マトラジェットM530と名乗った。
ショーでは話題を呼んだが、走ればマニアは落胆した。コストダウン優先で選んだドイツフォード四気筒1699cc・72馬力が非力で、デュネボネ社時代の信奉を失ったのである。
イタリアで乗ったことがあるが、ハンドリングは鋭く俊敏だったが、いかんせんパワー不足と思ったが、デュネボネ社時代を知らぬ若者には意外と評判も良く、安価なスポーツカーとして受け入れられて、とりあえず営業的には成功したのである。
新進メーカーのイメージアップ作戦の一つにレース活動がある。で、マトラ社もルマン24時間に挑戦するが結果得られず、そこで心新たにF3からF1に挑戦する。
そして三度のワールドチャンピオンに輝くジャッキー・スチュワートの操縦で、フォードV8搭載のF1マシーンが、ついに勝利して、67年度ワールド・コンストラクターズチャンピオンに輝いた。
こうしてマ社のスポーツカー事業は一応の成功を収めるが、レースは金食い虫といわれた通り金を使いすぎて、撤退を余儀なくされ、やがて人々から忘れ去られたしまったのである。