【車屋四六】何時もオペルはナンバーワン④

コラム・特集 車屋四六

流れ作業方式のラウプフロッシュは、ロングWBの四座席型も加えて好調に売上げを伸ばしていった。1924年、コピーとシトロエンからの告訴は「黄と緑だれが見ても混同することはない」の判決で一段落という話しは前回報告の通り。(トップ写真:斬新アメリカン姿のオリンピア1935年。ドイツ初モノコックボディー/全長3950x全幅1430x全高1485㎜・WB2370㎜・車重835kg・直四1288cc・24➚29馬力/3300回転最高速度95㎞)

これで順風満帆、発展が続くと思ったら、またもや貧乏神がやってきた。発端は、米国など戦勝国の圧力による、ドイツ製自動車保護のための輸入関税の撤廃だった。

敗戦の荒廃から再建に励むドイツ市場は未だ健全ではなく、戦勝国自動車産業から虎視眈々と狙われる市場だったのだ。
フォードはT型の生産工場を作り、GMは英国ボクスホールを買収してドイツ市場を狙った。

そこで賢く知恵を絞ったオペルは、同族経営だったオペルを株式会社へと組織替えしてから、GMへ資本参加を求めた…オペルは巨大GM資本と世界的販売網、GMは欧州一の生産規模、と双方の利害一致で、29年GM80%資本のアダムオペル社の誕生となる。

GMは31年、オペル一族の20%も手中にして、100%持株子会社化に成功する。その後は米国テイストを盛込んだ新型車を連発し、ラウプフロッシュも31年にはGM流1ℓモデルに仕立て直された。

GMと共同開発の一号車ムーンライトロードスター1931。全長4110x全幅1510x全高1665㎜・WB2540㎜・直六1790cc・32馬力/3200回転・最高速度85➚90㎞

そして6ℓ直列八気筒の高級リムジンを廃止して、中・小型車開発に集中する。その集大成が35年誕生のオペル・オリンピア。
36年開催のベルリン五輪にちなんだネーミングだった。

オリンピアは、ドイツ初の完全モノコックボディー。ボディーと一体化したヘッドランプも珍しく、注目を浴びた。その後、下位にカデット、上位にカピタン、最上位アドミラルと、38年にGMオペルの新ラインナップが完成する。

VWより人気が高いのでヒトラーが不機嫌になった?カデット1936。全長3810x全幅1375x全高1455㎜・WB2337㎜・車重745kg・直四1073cc・23馬力/3400回転・最高速度98㎞

その頃オペルは、創業以来260万台も売った自転車事業をNSU社に売却するが、その頃のオペルは欧州ナンバーワンになっていた。
が、その行く手に、またもや貧乏神が立ちはだかる。ドイツのポーランド侵攻で39年軍用車生産命令が発令し、40年カピタンの100万台目をしたあと、GMはオペルの経営権を放棄した。
ドイツを撤退したあと、GM本社の帳簿には、アダムオペルの評価資産価値1ドルと記載された。

やがて御存知の敗戦で、またもや廃墟からの再建が始まるのである。そして再建されたオペルは、1950年輸入権を持つ東邦モータースの手で日本市場に上陸、当初日の出の勢いだったが、徐々に販売低迷、76年に販売を終了する。

が、89年になると、GMの家族になった、いすゞからベクトラ、オメガ、セネターが発売されるが、いすゞの顧客と合わず撤退する。そして登場した救世主が、ヤナセだった。

92年VWの販売権を取上げられ激怒のヤナセが販売権を取得、96年には3万8339台を売り、さあこれからという時に、再び販売権を失い、その後GMが輸入したが不人気で日本市場を撤退した。
が、相も変わらず欧州ではVWと首位を争う一大勢力なのだが、何故か日本市場からは、そっぽを向かれるのが不思議である。

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