「老兵は死なず」は、マッカーサー元帥が朝鮮動乱(戦争)中に解任されて、日本を離れる時に発した名文句である。
北朝鮮が韓国に侵攻して始まったこの戦争は、当初助っ人の米軍優勢だったが、中国介入で劣勢に…で、マッカーサーの原爆投下進言をトルーマン大統領が却下、司令官交代という結果だった。
当初米軍の戦闘機はWWⅡ中の名機ノースアメリカンP51ムスタング、それに挑む中国軍機はソ連製ミグ…ジェット機vsプロペラ機の戦闘結果は明らかだった。
そこでノースロップF80シューティングスターを投入…この世界初のジェット戦闘機同士の戦でもミグに軍配が上がった。
戦闘中に気が付くと、強いミグに外人パイロットが…ソ連が送り込んだベテランで、WWⅡ歴戦の強者も居たようだ。
あわてた米軍は最新ノースアメリカンF86セイバーを送り、ようやく優位を取り戻した。(F86は後に日本航空自衛隊が採用)
ちなみにソ連人操縦士は、戦闘中に無線交信をせず、しかも深追いせず、万一撃墜されても中国軍支配地内という要心深い参戦だった…国際問題に発展を恐れたのだ。
だいぶ話がそれたが、日本を占領した進駐軍は占領政策の一環で乗用車生産を禁止したが、占領が一段落、日本が敵対しないと判ると、昭和22年/1947年に生産再開を許可した。
が、許可されたのは、1500cc以下300台、以上の大型50台というのだから、雀の涙とはまさにこのこと。それも一ヶ月ではなく一年分というのだから、ひどいものである。
連合軍最高司令部/GHQからの許可は春だが、いち早く夏に車を送りだいしたのが日産。戦前小型車の代名詞だったダットサンを復刻すれば良かったのだから、素早い再開も当然だった。
この手段は、終戦直後の米国や欧米の老舗と同じである。
もっとも、日産が一番乗りといったところで、吉原工場から出荷できたのは、たった5台。量産設備はなく戦前同様手作りだったとはいえ、たった5台というのは恐らく戦前の在庫部品を掻き集めても、ようやく5台分だったということだったのかも。
WB2005㎜、722cc・15馬力は戦前のままで、姿も戦前のままだが、ラジェーターグリルが違っていた。戦後らしく新デザインと思ったら、そうではなかった…倉庫を探しても戦前の部品も型もなく、仕方なく作った急ごしらえだったのだ…その後、戦前の型が見つかって、全てが戦前の姿に戻った。
いずれにしても戦前の老舗、ダットサンの日産は、再開一番乗りを果たし名誉を守り、それから暫くは、日本のナンバーワン・メーカーとして市場に君臨するのである。
さて、47年再開の二番手は{たま電気自動車}元立川飛行機で、秋を過ぎて{トヨペットSA}が登場するが、値段が高すぎて売れなかった。
で、トヨタは作戦変更でトヨペットスーパーを売りだし、タクシー業界の中型部門に進出成功。小型部門はダットサンと住み分けて、タクシー業界で活躍するのである。