1980年、ついに日本は世界一の自動車生産国になった。
敗戦後の生産量ゼロからの出発のあと、わずか35年で世界で一番に、日本人の勤勉努力の賜物である。
戦争中、乗用車の生産は日産とトヨタの軍向けだけで、ダットサンは小型自家用ということで生産されなかった。
そして敗戦…やってきた占領軍は、自動車生産を全て禁止したが、45年9月25日、復興に必要との見解でトラック生産の再開を許可した。日産は、幸いなことに主力横浜工場などが空襲を免れていたので、僅か5日後の10月1日には新体制で生産を再開できた。
で、在庫の資材を掻き集めて鶴見工場の第一号車完成が11月15日。一方、吉原工場のダットサントラックは46年7月26日と遅れたが、空襲を免れた工場があったればこその早業だった。(写真トップ:戦後急造で貧しさ一杯のラジェーターグリルを付けたダットサン・ピックアップトラック:戦後の悪路で水や砂利撥ねを避けるゴム製フラップが各フェンダーの後ろに)
一方、乗用車の生産再開許可は52年。ここでも日産は戦前型ダットサンでいち早く対応した。ちなみに純戦後に開発したダットサン110型の登場は55年である。
このようにダットサンの再開は戦前型トラックで始まるのだが、資材不足なのだろうメッキ部分を省略、窓は上下せず、スライド式で、アポロ型方向器が懐かしい。
トラックの戦後一号車1121型は、全長3147㎜、全幅1550㎜、全高1458㎜。最大積載量700kg。直四サイドバルブ15hp/3600rpm・3MT。ボディーは木骨鉄板張り…工場は木骨作業で、トンカチの音で建築現場みたいだった」と古老から聞いたことがある。
ピックアップの他に、バンやステーションワゴンも試作されたようだが、見掛けたことはない。ナンバープレートに{日産試作車}の板を取り付ければ、堂々と街を走れた時代なのに、東京方面に試乗は来なかったのだろう。
如何にも安っぽいラジェーターグリルは戦後の急造品で、48年になると戦前と同じ剣道の面のような姿を取り戻すのだが、それは戦前のプレス型が発見されたからだと聞いている。
何処から見ても、貧しさ一杯のピックアップトラックだが、敗戦直後の物不足の時代では、持てれば幸せ、これでも宝物のような貨物自動車だったのである。