【車屋四六】第二次世界大戦中のハドソン

コラム・特集 車屋四六

アメリカのハドソンは1909年創業の老舗だが、54年にナッシュ、そしてカイザーを吸収、更にウイリスと合併、アメリカンモータース=AMCになりクライスラーに吸収される。

写真(右)は44年のハドソンの広告。車は多分42年型ハドソンコモドーレ、そしてボーイングB29ストラトフォートレス重爆撃機。(“この爆撃機の翼はハドソン製”そして42年型ハドソンコモドーレを並べた広告はハドソン社1944年の広告)
ハドソンは兵器生産転換で、42年半ばに車輌生産中止のため42年の生産は6592台。コモドーレは直列八気筒4ℓ128馬力の中級車。

42年=昭和17年で開戦二年目の日本は元気一杯。1月マニラ陥落とシンガポール陥落、3月ラングーン陥落/ビルマ。4月フィリピンのコレヒドール要塞陥落でマッカーサー司令官が「私は必ず帰る」の名台詞を残してオーストラリアに逃げ出した。
2月、イ号潜水艦が米西海岸サンタバーバラに艦砲射撃を加える。とにかく連敗の報道に意気消沈するアメリカ国民のために、米軍は景気づけ苦肉の一策を考えた。

それが日本空襲。4月18日、忍び足で日本に近づいた空母から、ノースアメリカンB25ミッチェル双発爆撃機16機発進。
重い双発爆撃機の空母着艦は不可能だから、当時の言葉で云えば支那軍支配地域まで直行飛行の途中、東京、名古屋、大阪と爆弾を投下しながら日本上空を駆け抜けるという戦法だった。

この空爆の本音は戦果考慮せず。日本本土空襲というニュースが流せれば目的達成。意気消沈する米国民が「ザマー見ろ」とストレス解消、好戦意欲向上させるのが目的だった。

5月、日本海軍特殊潜行艇がシドニー湾内攻撃。その頃日本は勝ち戦で明るかった。ラジオからは♪朝だ元気だ♪ジャワのマンゴ売り♪など明るい唄が連日流れていた。
灰田勝彦の♪鈴懸の小道♪は、戦後小松英二のクラリネットでジャズになってリバイバルする。

6月のミドウエイ大海戦も我が軍の大勝利だった。初陣の戦艦大和以下艦艇350隻、空母搭載航空機1000機、将兵10万名の大機動部隊と米機動部隊の決戦だった。

が、日本軍の大勝利はガセネタ報道。現実は劣勢だった米軍の大勝利。原因は諜報力の差。日本の暗号電報が解読され、戦場がミドウエイと知って、待ち伏せされたのだ。もう一つ電子機器の性能差。

優秀なレーダーは日本機の接近を早期に発見。逆に日本偵察機は無線機故障で“敵空母発見”を打電できず、その間に米艦載機の攻撃で虎の子の空母群を失う。で、帰ってきた攻撃隊が降りる空母もなく、真珠湾攻撃以来の優秀なパイロットを大量喪失。

ミドウエイの名の通り、連戦連勝の日本軍が負けに転じる折り返し点になってしまったのだから皮肉なもの。で、有名なガダルカナル攻防戦の現実は,景気の良い報道とは裏腹に悲惨なもので、新聞で報じる“ガ島”は“餓島”だったと復員兵から聞いた。

“双発爆撃機、急降下爆撃機、上陸用舟艇、対空機関砲等どれも我が社の製品”ハドソン社1942年の広告

さて、ハドソンの広告が出た44年頃になると、アメリカは勝ちムード。広告文でも「勝利したら良いハドソンを造ります・近日中に販売店で会えるでしょう」「貴方が乗っているハドソンのサービスは万全です」などと書いている。

一方、相変わらず調子の良い大本営発表とは裏腹に、この頃の日本には暗いムードが流れ始めていた。♪同期の桜♪ラバウル小唄♪比島決戦の唄♪勝利の日まで♪ラジオから流れる唄の方も、なにか自棄くそムードが漂いはじめていた。

ところで自動車屋の広告にB29?は「この翼はハドソン製」で納得できよう。急降下爆撃機カーチスの空冷星形1900馬力、山本五十六待ち伏せで有名なロッキードP38双発戦闘機のV12アリソン1475馬力など、みなハドソン製と誇っている。

勝ち誇る米軍は陥落したマリアナに飛行場を完成。44年11月24日マリアナを離陸した111機が、中島飛行機茨城工場を爆撃。こいつがB29の日本初空襲だった。

そして29日からは夜間爆撃も開始。45年(昭20)に入ると、軍需施設民間を問わない無差別絨毯爆撃で日本中が焼け野原と化す。絨毯爆撃という言葉、日本生まれと思ったら、戦後知り合った米軍パイロットがカーペットボンビングと云っていた。