欧州の老舗アウディの歴史

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北京自動車ショーでアウディのブースに、フォーシルバーリングが輝く高級4ドアオープンが参考出品されていた。多分4社合併で生まれたアウトウニオン発足直後の作品と思われる。ホルヒ12プルマン・コンバーチブルと推測されるが、ヒトラー愛用のベンツと肩を並べる堂々たる姿である。

前と後ろ姿で両側に予備タイヤとわかる/後部に立派な革張りのトランク/ドイツ車得意の断熱効果が高いブ厚い幌は畳むとこんなに大きく後方視界最悪/内装のウッドのトリムが美しかった。

そもそもアウディの源流は、1873(明治6)年創業の織機製造工場で、86年には自転車、1900(明治33)年にオートバイを完成販売したのが世界初本格的量産オートバイで、工場所在地にちなみネッカースウルムのブランドで発売され、好評で輸出もされた。

そしてNeckarsulm(ネッカーズルム)の町名にあやかりNSUの名が誕生する。写真の二輪は、1901(明治34)年で、生産量474台だったが、04年には2228台へと急成長する。お陰で二輪車に対する人々の印象が「重いから好き者が乗るクルマ」から、普通体格の人が簡単に乗れる軽快なクルマへと変わったのである。

1901年製ネッカースウルム自動二輪車/撮影ランゲンブルグ自動車博物館:後輪ベルトドライブ/エンジン下部に油受皿があるから動態保存と思われる。

オートバイで自動車市場に登場したNSUは、当然のように四輪車開発を目指して、05年に水冷4気筒10馬力2座席車を発売。すぐに後部座席がある24馬力車も発表した。その後四輪も順調発展するが、WWⅠが始まると、軍御用達で二輪車生産に全力投球し敗戦を迎える。敗戦後は四輪レースにも力を入れ、26年のベルリンGPでは上位4位まで独占という快挙をやってのける。

そして32年、アウディ・ホルヒ・バンダラー・DKW、4社合併でアウトウニオンが誕生するが、30年頃の世界大恐慌で生残りをかけた合併という説と、自動車レースで国威高揚を目指すナチ政権の政策でベンツに対抗する会社が必要としての合併という説がある。私は後説だと思っているが。

北京自動車ショーのアウディのブースに参考出品された1932年頃の高級オープンカー:製造は旧ホルヒと推測するが、たぶん直列8気筒エンジン。

いずれにしても合併後のアウトウニオンが、ベンツと両輪でサーキットを荒らし回るのは有名な話しだが、登場したシルバーアローシリーズの6ℓV型12気筒は520馬力に達し、レースに活躍する傍ら、速度記録にも執念を燃やした。

エースドライバーのベルント・ローゼマイヤーが、ベンツの公道世界記録時速432.6㎞を破るべく出走して、アウトバーンで横風にあおられて事故死したのは知られた事実だが、事故寸前の速度が時速470㎞だったと報告されている。クルマの開発者ポルシェ博士は「あのクルマは横風に弱い。現場にいれば止めたのに」と語ったそうだ。

39年、WWⅡ開戦で、当然のように兵器生産体制になるが各工場は爆撃により大被害を被り、二度目の敗戦。が、45年の商用車に始まり、得意の二輪、そして軽量四輪と、徐々に復活していく話しは、いずれということにする。

(車屋 四六)

 

車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち」「懐かしの車アルバム」等々。

 

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