数字で500をイタリー語でチンクエチェントと云う。こう云えば車フリークの読者はもう気付いたはず。そうWWⅡ前に誕生し、戦後に掛けて一世風靡のフィアット製小型大衆車である。
何しろ長期にわたる人気者だから、たくさんのバリエーションが登場した。二座席クーペが四座席に。クーペからワゴン。ちなみに戦後、フェイスリフトで近代的姿に進化もしている。
そして、チンクエチェントは、時代と共に600に成長する。イタリー語でセイチェント。この車も多くのバリエーションが登場。ストレッチしてタクシーに。このタクシーには、60年代にイタリーで乗った人がたくさん居るはずだ。
またアバルトでチューニングした車が船橋サーキットを走ったのを見たという人は年季が入ったレースファン。いずれにしても、チンクエチェントからセイチェントに進化する段階で、最大の変化は、FRからRRになったことだろう。
ムルティプラは、小さくて安い小型車ということで、カロッツェリアの良き題材でもあった。本日紹介するのは、そんな中でもとびきり遊び心に満ちた一台である。
これを見た頃の日本で我々が考える乗用車という物は、人を運ぶための道具で、たまには遊びのドライブに出かけるという高価貴重な道具でしかなかったから、初めて出会った時、大変なカルチャーショックを受けたものだった。
最初から、遊び目的の乗用車。しかも仕事には使うことが出来ない乗用車。「何と贅沢な」と驚いたのである。
ショー会場の展示車の背景には、明るい太陽の下、カンヌ辺りなのだろう、濡れた水着のまま駆けてきて、ムルティプラに飛び乗る娘達の写真が飾られていた。
写真で判るように、シートやインテリアが籐製(とうせい)だった。非実用的もここまで来ると、当時自動車では発展途上国の日本人としては驚き、あきれるのも当たり前だった。
が、楽しさとは裏腹に、心配事が一つ。ボディー剛性。ここまで遊ばなくても、昔からセダンやクーペからオープンカーが生まれるが、剛性不足で、荒い路面ではボディーがギクシャクとシェイクしたのを知っていたからだ。
ロードスターのMG、ジャガーXK-120、ベンツやキャデラックのオープンカー、どれもが同じだった。悪路の日本では特にひどかったが、それが当たり前と不満を抱く人もほとんど居なかったが。
もっとも現在の高い剛性で、悪路でもびくともしないセダンから比べれば、シボレーやフォードはもちろん、クライスラーやリンカーンでも、日本の悪路ではボディーの捻れを感じたものである。MG-TDなんか、捻れると指が入るほど隙間が開いたものである。
あれから何十年かが経つ過程で、日本自動車産業は世界のトップベルに達し、国全体の経済も豊かになり、遊び心のある乗用車もたくさん生まれた。
が、今度は追われる立場になり、四苦八苦している。かつて車造りを教えた韓国に追い上げられ、いずれ中国にも脅かされることになろう。インドネシアにも、印度にも。
1970年代、日産の中川良一(副社長)さんが話してくれた。敗戦後の日本の物作りが世界のトップベルに到達できたのは、終戦までに蓄積した技術を土台に出来たからだ。
基礎技術に金を掛けない現在の日本の体質はやがて国を衰退させる。以前は軍主導ではあったが、技術の進歩に対しては幾らでも金が掛けられた。
二十世紀中は、我々世代の蓄積した技術でしのげるが、二十一世紀が始まるまでに、国も企業も金を惜しまず基礎技術の開発に専念しなければ追いつき追い越される。かつて日本が上り詰めたのと同じ道である。
航空エンジンでは世界的権威だった中川さんの言葉だが、今まさにそれを感じる。近頃の日本企業はどうだろうか。自動車ショーのコンセプトカーはそれなりに楽しいが、純粋に技術追求なのだろう。いや、結びつく利益を追っているように感じる。
話変わって近頃の若者は車に興味を失ったという。が、基礎技術に十分に金を掛けながら、ムルティプラのような楽しい夢を持たせる遊び車で息抜きも必要ではないだろうか。
私見ではあるが、そんなことがこれからの日本の自動車を育て、若者に再び車の夢を持たせる一助になるのではと思っている。