【車屋四六の good days and good cars】高級車になったジャガーMK-Ⅱ

コラム・特集 車屋四六

写真の1963年型のジャガーは、1996年開催の日光クラシックカー・フェスティバルの参加車。

 

 

全長4590×全幅1700×全高1460㎜・重量1460㎏・3.8㍑DOHCはSUキャブ二連装で210馬力・4MT・最高速度201km/hだった。

わたしもジャガーが好きで、MK-ⅦやXK-120に乗ったが、それまでのジャガーは、初期のロレックス同様に、姿と性能はいいが、毎日乗っていると、安普請と言った方がいいくらいなものだった。

が、MK-Ⅱになって、作りが良くなり品質も向上、ハッタリから抜け出して、本物の高級車らしくなったいうことだった。

MK-Ⅱはハッタリ商品を卒業して、名実共に、高級車と呼べるようになったのだ。

原因はXK-120とMK-Ⅶが米国で売れた…たくさん売れれば研究開発費が潤沢になり、車が良くなる。良くなれば、さらに売り上げが増える。

ハッタリ商品で成長するジャガーのウイリアム…ライオンズ社長は、優れた経営手腕はもとより、優れたデザイン感覚と宣伝手腕の持ち主でもあった。

で、米国進出に当たり、1949年に、ハリウッドでジャガーショーを開催した…報道が注目する中、最初にMK-Ⅴを予約したのが、クラーク・ゲイブルだった。

デューセンバーグなど超高級車で、目が肥えたハリウッドの大スターが、ハッタリ商品の予約?こいつは、宣伝上手なライオンズ社長が仕掛けたのだろう。

いずれにしても、大スターがお買い上げで、ジャガーの名は、一気に全米に知れ渡った。

 

吉田茂氏の公用車の「MK-V」

 

で、1950年にXK-120を投入。1951年にMK-Ⅶを投入して、成功への道を歩み始めた。

1955年にXK-120は140に、さらに1957年には150,1962年にはEタイプへと進化を続ける。

一方、MK-Ⅴは1951年にMK-Ⅶ、そして1959年MK-Ⅷ、更にMK-Xになり、MK-Ⅱが登場したのは、1960年だった。

ライオンズは、米国市場開拓の援護射撃として、レース活動にも力を入れた…1951年XK-120がルマン24時間の優勝。ベンツが大惨事を起こした1955年にはDタイプが登場する。

ちなみに、Dタイプは、第一回の本GPにも登場したから覚えている人も居るだろう。

 

XK-120 レーシングカー

 

戦前は、高級車さながらの姿で高級車の半値。戦後は近未来的姿に高嶺の花のDOHC搭載と、奇抜な手段で成長したジャガーが、本物の高級車と呼べるようになったのが、MK-Ⅱだったと思っている。

ちなみに、1950年頃、フェラーリでさえSOHCだった頃に、DOHCの登場だった。

当時の日本は外貨不足で外車の輸入禁止時代だったが、羽振りの良い芸能人、三國連太郎や朝丘雪路、フランク永井などがMK-Ⅱに乗る姿が羨ましかった。

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