【車屋四六】日産初のFWDはチェリー

コラム・特集 車屋四六

日本ではFFだったが、4WDと共に日本流英語だ。世界ではFWDでありAWDと呼んでいる。日本でFWDの早期採用はスズキフロンテで、次にスバル1000、シビックなどである。

が、日本の両巨頭は腰が重く、日産に登場したのが70年で、トヨタは更に遅れた。

70年(昭45)の夏が終わる頃、日産初のFWDとして登場したのがチェリー。日産の力の入れようはたいしたもので、新しい販売チャネルとしてチェリー店を組織した。(写真トップ:日光今市のガソリンスタンドで給油中のチェリー。今では考えられない仮ナンバーのまま試乗をしていた)

耳にタコだろうが、大衆車時代の幕開けと称して59年に日産から登場したブルーバードは、車造り技術で日本に大きな影響を与えたが、当時低所得の大衆には手が届かぬ大衆車だった。もちろんBC戦争の相手、コロナにも同じことが当てはまる。

真の意味での日本の大衆車時代は、66年誕生のサニー、そしてカローラにより幕が上がるのだ。敗戦から既に20年が経ち、経済力も回復しはじめた日本の大衆車時代は、この頃からなのだ。

市場が拡大すると見れば、メーカーの打つ手は早い。販売の増加は、販売拠点の数とばかりに、販売チャネルを増やしたが、チェリー店新設も、その手段の一つだったろう。

さて、日本でのFWD普及の担い手はシビックと云って過言ではないだろう。が、先輩達も含めて、単に中小メーカーの作品でしかなかったのである。日本の流行は、やはり二大巨頭がリードするというのが決まりのようなものだった。

そんな状況の中、日産のFWDは、ライバルの全車FRのトヨタに対しての宣戦布告と捉えてもおかしくないのだから、専門家は注目し話題となった。

その頃の日産は、現在のようにトヨタとの格差はなく、昭和20年代からの名文句“技術の日産”という言葉が通用した時代だったから、生まれた新機構に注目が集まるのも当然だった。

誕生のチェリーはセダン(2/4ドア)だが、FWDのメリットでサニーより小型軽量なのに、サニークラスの1Lと1.2Lを搭載したものだから、軽快な走りはスポーツカーもどき、それも一つの話題になり、人気の要因となった。

FWDの利点を生かしコンパクトだが広いキャビンのチェリー・フォードアセダン

チェリーは、合併した旧プリンス系技術者が開発したものだが、全長3610㎜と小粒ながら、FWDのメリットを生かした居住空間が売り物で、セオリー通り横置きのエンジンはOHVだったが、良く回ることで定評が生まれ、レースでも活躍した。

R10型988cc58馬力と、R12型1171cc80馬力。いずれも回転馬力指向丸出しの典型的オーバースクエア型燃焼室の持ち主。卓越した性能は58馬力の方で最高速度140km/h。80馬力の方の最高速度は160km/hという、いずれにしてもズ抜けた速さだった。

最初の試乗は日光方面。私が今市で給油する写真を見ると、車は仮ナンバーのまま。のんびりしていた時代だった。

翌年になると、80㎜全長が延びたクーペが追加されるが、姿の美しさが抜群だった。そのラリーバージョンのX1で、まだ荒れた路面の道志街道を走ったが、尻が痛くなる乗り心地だったがベラボーに速かった。

全長を伸ばしてスポーティーな性能を誇示した後発のX1クーペ。スタイルも抜群だった