【車屋四六】FWDでは世界的老舗のDKW

コラム・特集 車屋四六

DKWはドイツの車だから、正しい発音は”デー・カー・ヴェー”。老舗が雁首を並べるヨーロッパでは、新参者の部類に属するが、既に消えてしまったブランドだ。

会社創立は1906年と古いが、ボイラーメーカで暖房器具などが主力製品。そのボイラー技術で蒸気自動車を開発。名付けて”Dampf Kraft Wagen”。その頭文字から、DKWの名が生まれた。

その後、モーターサイクルを開発して、27年には年産4万台で世界最大のモーターサイクルメーカーに成長する。そして四輪乗用車の開発販売開始が28年だった。

で、28年生まれのDKWは、後にアウディと合併。さらにヒトラー政権のナチ時代に、バンデラー、ホルヒと合併して、アウトウニオンを名乗るようになる。

WWII後の58年にダイムラーベンツに買収され、暫くしてVWが買収。その後NSUを合併して、現在のVWアウディになってからは皆さんご存じの通り。

戦前、多くの名作を生んだDKWの戦後復活は50年で、ゾンダークラッセが誕生する。同時に、廉価版のマイスタークラッセも登場する。当時の日本のエージェントは麻布箪笥町の東急自動車だが、アメリカ製ナッシュのエージェントも兼ねていた。

江戸時代からの町名”箪笥町”もう無いが、六本木から溜池方面へ坂を下り、現在のアークヒルズの前あたりである。ショールームが明るいガラス張りで、当時は店頭セールスだから、カタログを貰いに行くとコーヒーサービスがあり、昼頃だとサンドイッチ付きだったのを覚えている。

小柄なDKWの姿は、当時としてはスマートな車だった。全長4200㎜、全幅1600㎜。ホイールベース2350㎜。車重800㎏。特徴は当時では珍しい前輪駆動。先輩にシトロエンが有るくらいだった。が、DKWは、スエーデンの飛行機メーカーが自動車開発を始める時にサンプルとなり、それで生まれたのがサーブである。

水平対向エンジンも特徴の一つだが、2ストロークというのは、モーターターサイクル屋の得意技といえよう。マイスタークラッセは、二気筒684㏄で23馬力。上級のゾンダークラッセは、三気筒896㏄で34馬力。

変速機が三速型で、最高速度が115km/hほど。マイスタークラッセの東急自動車での販売価格は、120万円ほどと記憶する。独特な2ストローク特有の軽い排気音が耳に残っている。

モデルチェンジしたDKW:第一回日本GPにも登場した

私がDKWで想い出すのが津々見友彦。日本のレース黎明期に活躍した老練だが、後に自動車評論家となってからは、よく一緒に取材をしたものである。

彼の、日本での活躍の始まりが第一回日本グランプリで、その時の車がDKW。古くくたびれた車だったから成績は芳しくなかったが、鈴鹿を走る格好良い姿を今でも想い出すことが出来る。

さて、津々見友彦参戦の第一回日本グランプリ(昭38)登場の日本車は、プリンス・グロリア、三菱コルト1000、ブルーバード410、ホンダS500、ダイハツ・コンパーノベルリーナ、いすゞベレット1500、プリンス・スカイライン1500。

ケネディー大統領暗殺、力道山ヤクザに刺され死亡。野村胡堂(銭形平次の作者)、久保田万太郎、エディット・ピアフ(シャンソン歌手)、ジャンコクトー(仏詩人小説家)、小津安二郎(映画監督)、モルガンお雪(米財閥モルガンに見初められ結婚した祇園の芸妓)など、明治生まれが続々と冥界入りした年である。

DKWゾンダークラッセを参考に開発した初代サーブ一号車。元気だった頃のGMがトヨタ博物館に寄贈