日本が貧乏だった頃、そう昭和20年代から30年代前半は、自動車というものは贅沢なもので、一般庶民はせいぜいタクシーかバス。ハイヤーなんて、なかなか乗るチャンスはなかった。
まして自家用車なんぞというものは雲の上だから、どんな車でも持てれば幸せ、人からは羨ましがられる存在だった。昭和20年代末、日本橋の酒屋の先輩は、店のダットサン・ピックアップに乗り、銀座でガールハントをしていた。
その頃、外国には古い車を集めたり、乗ったりしている人達が居るのを聞いた。いくら車でも、日本では古くなれば値が下がり、やがては捨てるのが常識だから、馬鹿な外国人もいるものだと呆れた。
今にして思えば、貧乏だから判らぬことで、裕福なればこその上等な趣味娯楽だったのだ。当たり前のように周りに自動車があれば数が少なくなった古い車が珍しくなり、趣味になるのだ。
そんな馬鹿なやつ、と云っては失礼だが、90年代うちの側にも、そんな趣味にのめり込んでいるマニアが一人いた。彼の名は清水弘之、空調給排水設備工事の社長である。
ある日、原稿書きに疲れてフラッと表に出て、角を曲がったら彼が車を磨いていた。新しい骨董品を買ったようだと近づいたらMGB、と思って更に近づくと、BではなくCだった。
フラットなMGBと異なり、MGCのボンネットがモッコリと膨らみがあるのはエンジンのせいで、MGBは直四1798㏄95馬力だが、MGCのは2912㏄145馬力で直六なのである。
一世風靡のMG-TDからTF、そしてMGAからMGBと進化する過程は、アメリカ市場のライバルに対抗上の馬力競争でもあった。で、MGBで更に強力型をと要望するユーザーのために生まれたのがMGCだったのである。
四気筒から六気筒へ、ということでボンネットを膨らませる必要があったのだ。が、狭い所に六気筒を押し込んだ結果は、オーバーヒートに悩まされるようになり、本来四気筒でバランスする車体は、アンバランスとトルクの増大で、扱いにくい車になった。
もっとも73年にアルミ製の軽量さを買われたローバー用3528㏄137馬力・V8にバトンタッチしてから、多少乗りやすくなった。MGCは68年登場だが、ロードスターとクーペがあった。
クーペの方をMGC-GTといい「長距離ツーリングで疲れず・快適な旅が楽しめる」をキャッチフレーズにアメリカに輸出されたから、当然のように、三速ATがかなりを占めた。レースやトライアルをしなくともスポーツカーが欲しいというユーザーのためで、コルベットやムスタング、そしてフェアレディZなど、どれもがその配慮で、ATの人気があった。
が、MGC誕生の真の目的は、GT=グランツーリスモではなく、当時評判のオースチンヒーレイ100に対して、コンペティティブなスポーツカーの開発を必要としたからだった。
MGCの六気筒はボアxストローク=83×86㎜とロングストローク型で圧縮比9、SUキャブ二連装。4MT。前輪トーションバーのウイッシュボーンでディスクブレーキ。タイヤが165-15で、ホイールはスチールと、美しいワイヤーホイールは銅製ハンマーで締めるセンターロック型、その中心には八角形のMGマークが光っていた。
最高速度は120マイルとヒーレー100を上回り、最高速度192㎞。0~100km/hは10.0秒で走りきる。アメリカような大陸では評判もよく、全生産量は8999台に達した。