【車屋四六】オペルカピタンとナンチュウ

コラム・特集 車屋四六

難波瑛彦(てるひこ)は、成城学園高校を卒業して慶応義塾大学にやってきた。で、私の一年後輩となる。

素晴らしい運動神経の持ち主で、馬術の日本選手権で優勝したその日の夜、私たちのアイスホッケーチームに来て、ポイントを稼ぎまくってくれる。また夏になると軽井沢のテニストーナメントで上位に勝ち残っていたり、大学を卒業してからは、ゴルフでずいぶんとカモにされた。親しい連中は”ナンチュウ”と呼んでいた。

在学中はよく遊び、よく飲み歩いた。彼の性格は少々行き当たりばったり的だが天真爛漫。いたずら好きだが人に恨まれず、まるでヤンチャ坊主が大人になった感じだった。

欧米では馬術競技は上流階級のもの。占領軍将官はこともあろうに皇居内馬場にパレスライディングクラブを設立。定期的競技には日本人も出場。画質は悪いが私が撮った皇太子(現平成天皇)の障害飛越・白馬は雪嶺号。学習院馬術部主将・皇太子最後の競技姿

私は、丸の内の建設荷役機械製造販売会社を三年務めて辞めた。その頃、まだ脱サラという言葉はなかった。で、クラスメイトの西村元一、グライダー仲間で整備士の宮崎良樹と、日本橋茅場町で修理工場+ガソリンスタンド、カブトオートセンターを開業した。
その店は、西村の父親が経営する国際自動車興行輸入の最新修理機械工具の実演展示場でもあったから、車にはうるさい客が来た。

ある日のこと「何処に行ったのかと思ったらこんな所にいた」とナンチュウが訪ねてきた。学生服が背広になり大人っぽくなったが、やんちゃな面影はそのままだった。

「先輩ボロ車の面倒見て下さい」と乗ってきたのは、中型のオペルカピタンだった。1953年型ではあるが、戦後のフルモデルチェンジ前だから、スタイルは戦前のままだった。

45年、日本より数ヶ月前に戦争を終えたドイツで、オペルが生産を再開したのは46年だった。先ず、戦前型のオリンピア1500、翌年にカピタンが復活した。敗戦国にはふさわしい、戦前の人気大衆車カデットでは再開不能だった。何度か紹介したが、工場がソ連占領地域だったのが不運。工場丸ごとモスクワ近郊に運ばれて、モスコビッチの名前で生産されてしまったからである。

モスコビッチはその後輸出されたが「アフターサービス万全、ヨーロッパ中のオペルの工場に行けば修理も部品も心配ない」と宣伝したのだから、厚かましさでは一流である。

オペルはGM100%の子会社らしく、カピタン53年型の姿は戦前のシボレーの流れを汲んでいた。前輪ダブルウィッシュボーン、後輪リーフリジッドのコンビもそのままで、エンジンは直六OHVで2.5L、60馬力である。

それからは定期的にメンテナンスに来ていたが、ふと気が付くと半年ほど来ていない。それが気になり始めて半年ほどだったろうか「先輩頼みがあるんですが」と顔を出した。

で、またぞろ何かやったのかと心配したのは取り越し苦労だった。というのもナンチュウの父親は著名な電子工学者で国際電電の参与、また切手の収集家としても国際的に著名だった人物。

その難波さんが是非会いたいというのでKDDを訪ねたら「瑛彦は両親を避けるが体育会育ちらしく先輩の云うことは聞くので是非目を配って欲しい」と頼まれた。それは私だけではなく、各地の先輩に、お願いしてあるとのこと。

いうなれば全国指名手配?親になりかわっての指揮権を与えられていた。それで、いよいよ出番かと勘違いしたのである。

が、頼みというのは、卒業後務めていた先輩の会社を辞めて、本田技研に就職したら仙台勤務になったので、来られなかったのだというのである。

それでカピタンを至急売って欲しい。そして新しく買ったキャデラックの登録手続きが終わったら、仙台まで運んで欲しいというのが頼みだった。

二、三日は東京に居るというので、戸塚カントリークラブでゴルフをやることにした。メンバーは慶大柔道部主将だった富澤英郎先輩と、戸塚のメンバー大野伴雄先輩。ちなみに大野先輩は、昭和30年代なら泣く子もだまる大物代議士、大野伴睦の末っ子。

案の定、ナンチュウにカモられたが、一風呂浴びてビールを飲みながら、たまたまキャデラックの話が出ると、大野先輩「なんだそれこの間までウチの社長が乗っていたやつだよ」ということで、彼のキャデラックが、旭化成の社長専用車だと判った。

ナンチュウのキャデラックの名義変更登録が終わり、仙台までの回送珍道中の話は、次回に。

キャデラック62型1952年型:ナンチュウの車と同じ。全長5495x全幅2034㎜。WB3376㎜。車重2034㎏。V8OHV、5296㏄、2101hp/4400rpm。ハイドラマティック3AT。US$3636/ヤナセ価格約300万円