名優森繁久弥が亡くなった/96才。ガキの頃からのファンだから何か寂しい。親しくはないが、共通の趣味のヨットハーバーで、またラリーで会ったこともあり、気さくで楽しいオッサンで「女優はネおシリをさわると喜ぶよ」などと云っていた。
たぶん54年(昭29)頃の写真だろう、場所は明治神宮絵画館を遠くに見る有名な銀杏並木の通り。颯爽と車に乗り込むのは、若き日の森繁久弥である。
さあこれから出発というJAA主催ラリーのスタート風景の一齣。此処はラリーの出発点によく使われた所で、私が日本ベストドライバコンテストで優勝した時の深夜のスタートも此処だった。
俳優とは不思議なもの。私生活でも人に見られているからだろうか、何気ない仕草がサマになっているし、まして名優ともなれば存在感も充分だ。車に乗り込む姿もスマートだし、格好良いが、本人、意識してはいないだろう。鍛え上げた芸が身に染みついて、ふとした動作にも出てくるのだろう。
過激なのもある一方で、昔のラリーには家族や友人で楽しむラリーもあった。目的地に着くまでの間に、与えられた課題をこなし、楽しく点を競うというものである。
昭和20年代は、駐留軍は治外法権的扱いの時代だから、虎の威を借りる狐ではないが、東京大阪間ミレミリアなんてうそぶく、日本橋を出発→京都まで8時間台、というような乱暴なロードレースも行われていた。
この日のJAAラリーは遊び要素が強いもので、参加者の中に森繁久弥もいた。彼の愛車は英国製のライレイ・パスファインダー。クラシックな姿が魅力的なフォードアサルーンである。
50年代ライレイは、赤坂溜池31番地の日英自動車が、ウーズレイ、モーリス、MGと共に輸入していたが、ライレイには1500㏄と2500㏄の二種類がある。
ヨーロッパではライレイと云えば高性能を連想した。というのも、30年代のライレイのスポーツカーは、レースやヒルクライムで活躍、有名なブルックランズでも勇名を馳せた車だからだ。
そんなスポーツカーのメーカーが、スポーツカー造りを辞めたのには理由がある。39年に、ナッフィールドグループの傘下に入ったのが原因である。
グループでは、高級車はウーズレイ、大衆車はモーリス、スポーツカーがMGと住分けていたので、新参のライレイには高性能サルーンというポジションが与えられたのである。
ということで、パスファインダーの売りは、中型のサルーンでありながら時速100マイル、160㎞をマークできることだった。当時、一般乗用車で100マイルは一つの壁であり夢だったのだ。
パスファインダーの諸元は、全長4648㎜、全幅1700㎜。直四OHVエンジンは、典型的なロングストローク型で、102hp/4400rpm。懸架装置は前輪Wウイッシュボーン/後輪は昔ながらのリーフリジッドアクスル。当然オーソドックスな後輪駆動=FRだ。四速シンクロメッシュの変速機は、床から直立した短いシフトレバーでクイックな変速操作ができた。
私が乗ったライレイ1500が古くなり解体した。革張りのルーフを剥がしたらアルミ合金製で、細かい穴がたくさん開けられて軽量化を果たしていた。
軽量化といえば、ルーフだけではなく、ボンネット、ドア、トランクドアも、みなアルミ合金で作られていた。私のライレイは53年型だった。
森繁さんのは塗装が黒だったように記憶するが、私のは濃い緑、いわゆるブリティッシュグリーンと呼んだカラーで、黒い革のルーフとのコンビがクラシックで惚れ惚れとする姿だった。
島康男は麻布小学校の同級生で、昭和30年代、40年代に活躍した写真家。英国製フォード・アングリアに乗っていたが、私の薦めで、綺麗な緑のパスファインダーを買って乗っていた。