ランサーから派生したスポーティクーペ「セレステ2000GT」

コラム・特集 車屋四六
1960年三菱コルト誕生、そしてギャランが生まれ、ランサーが登場するのが73年。そのランサーから、75年に派生したのがスポーティーなクーペ、セレステだった。
セレステは、日本人憧れのアメ車、フォード・マスタングに似たシルエットが受けて人気車種に。また北米にも輸出されて、プリムス・アローの名で若い女性に受けたと聞いている。
セレステが生まれた75年、大阪万博で世紀の大女優マレーネ・デイートリッヒが歌った歌を、加藤登紀子、梓みちよ、戸川昌子、倍賞千恵子、淡谷のり子、日本の一流がこぞってレコーディングという不思議な現象が起き、一気にブレークしたのがリリマルレーン。
WWⅡ中に敵味方両陣営で流行ったというドイツの不思議な歌だが、歌詞は更に古くWWⅠ中、ドイツ兵が戦線から恋人に送った詩…後年その詩に酒場のピアニストが曲を付け、ララアンデルセンが歌い、呑んでいたテレフンケンの技師が気に入りレコーディングするが、人気はサッパリだった。
その不人気レコード二枚がアフリカ戦線に渡り、軍が放送したのが大流行のはじまり。独逸兵のリクエストで繰り返し放送されると、英兵も口ずさむので、英軍将校が英語の詩を付けたら連合軍兵士にもお気に入りの流行歌となったのである。
この歌を私が知ったのは万博より前の50年代…進駐軍キャンプそして毎晩通う銀座のビアレストラン・ゲルマニアで、夜な夜な演奏されるのを聞き、すぐに憶えたものだった。
リリマルレーン・歌ララアンデルセン・エレクトロラ社78回転シェラック盤のレーベル
セレステの評判はよく、79年お定まりの強力バージョン2000GTが登場。G42B型・直四OHC・1995ccは105馬力。斬新なミシュランのラジアルタイヤ、四輪ディスクブレーキも自慢だった。
値段は135.5万円。FMマルチカセット+6スピーカーのオーディオと装備も上等。独特なプロポーションと相まって割安感があった。
中身が四気筒なのに、ロングノーズに見えるスタイリングは、米国向け5マイル衝突バンパーで視覚的に長く見せたマジックだった。
全長4380×全幅1620×全高1345㎜・車重995kg。軽く仕上げた車重に対しエンジン出力が充分だったから、スポーティードライブが楽しめた。
セレステ誕生の75年、前席三点シートベルトの義務化・全国津々浦々爆発的にインベーダーゲームが大流行したが直ぐに線香花火のように消えていった。千昌夫{北国の春}が流行った頃だった。
ランサーの試乗取材で工事中の小田原厚木道路での一休み・下田カメラマンと筆者/右:偶然走行中のセレステが後方に。
車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支 離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格 審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち 」「懐かしの車アルバム」等々。
Tagged