【車屋四六】トヨタ、業界のドン日産に挑む

コラム・特集 車屋四六

一枚の写真を紹介しよう。霧にかすんだ背景から察すると、たぶん箱根芦ノ湖ではないかと推測される。

どんな目的で撮られたものか判らないが、左からコロナ、ルノー、ヒルマン、スカイライン、オースチン、当時国産の最新鋭乗用車がズラリと雁首(がんくび)を揃えている。(写真トップ:平成3年8月頃カー&レジャーニュース紙に掲載の集合写真。自動車技術会の目的の合同試乗なのか、遠く霞む箱根芦ノ湖に集合)

裾の長い白いワンピースの白いハイヒールを履いた女の姿は、昭和30年代初めの頃の雰囲気である。また、並んだ車の顔ぶれから想像するに、昭和32年頃に撮られたものだろう。とすると、クラウンが写っていないのが不思議だが。

この時代、市場憧れの順に並べると、オースチン、ヒルマン、ルノー、スカイライン、コロナだが、販売台数が一番はルノー。ルノーは安かったし、タクシーでも活躍していたから。

日野ルノーのノックダウン第一号車のロールオフは昭和28年だが、完全国産化に成功して、写真のデラックスが登場したのは昭和32年。値段はスタンダード74万円、デラックス79万円だった。

いすゞヒルマンミンクスのノックダウン開始も昭和28年。昭和31年にフルモデルチェンジして、完全国産化の完了は翌昭和32年。写真は、サイドモールの様子と、ラジェーターグリルから察して、昭和32年型デラックスで、値段は103万3000円。

さて、ヒルマンの対抗馬オースチンも、日産のノックダウンから始まる。これも昭和28年に、オースチンA40サマーセットで始まるが、翌年にイギリス本国でフルモデルチェンジのため、後を追うようにA50ケンブリッジに移行した。写真のA50は昭和31年型デラックスと、白いルーフのツートーンカラーとボディーサイドのモールの形から判断できるが、販売価格は119万5000円だった。

スカイラインは未だ日産製ではなかった。合併する前の富士精密製のフォードアセダン。

戦後、再び日本に戦争をさせないために、占領軍GHQ(連合軍最高司令部)の命令で、財閥解体令というのがあった。日産も解体された日産コンツェルンの中の一社。また中島飛行機が解体されて、発動機三鷹工場から生まれたのが富士精密である。

その富士精密で作っていたのがスカイラインだから、この時代は未だ日産製ではない。余談になるが、スバルの富士重工も元は中島飛行機だから、富士精密とは親戚だ。で、当時の両社古手は戦争中の同僚達ということになる。

飛行機の技術者が多い富士精密の開発技術力は高く、スカイラインも当時の水準では日本でもっとも斬新で、日本初のOHV1500㏄エンジン60馬力は日本最強だった。

また、バックボーンフレーム、サスペンションのフロントWウイッシュボーンやリアのドディオンアクスルなども先進技術だった。スカイラインの販売価格はスタンダードで90万円、デラックスが110万円ほどだったと記憶する。

さて、写真のコロナ初代が登場した頃の日本乗用車市場では、日産がドン的存在で、何とかやっつけようとトヨタが日産を目の仇としている時代だった。

ダットサン211打倒を目標に開発されたコロナ二代目:が、登場したら敵はブルーバー310に代替わりで返り討ちに。当初、ボディーやサスが弱いの評判が後を引いた不運な車

こんにちの強大なトヨタになるには未だ10年ほどが必要だった。日産は戦前から小型車の代名詞でもあったダットサンが好調で、小型車市場を牛耳(ぎゅうじ)っており、そのダットサン打倒を目標に開発されたのが、昭和32年生まれのコロナで値段は64万円。

コロナは仮想敵があったから、何処もダットサンより機構が斬新。モノコックボディー、フロントWウイッシュボーン+コイルスプリングなど先進国レベルだったが、1000㏄33馬力エンジンが非力でダットサンには刃がたたず、結果は負け戦だった。

で、必勝を期すコロナ二代目が登場したら、標的のダットサンは市場になく、名車ブルーバードに代替わりで、またもや負け戦。が、二代目ブルーバードのデザインの失敗に付け込んで、コロナは三代目でようやく王座に座り念願を果たすのである。

たった一枚の写真をルーペで見れば、いろんなことが判ってくる。いずれにしても、こんな車達を踏み台に日本車は成長、やがて世界一の乗用車生産国に上り詰めるのだが、栄枯盛衰(えいこせいすい)は世の習い、今度は中国に抜かれてしまうことになる。

豚ッ鼻のコロナの愛称も生まれたコロナ三代目:ブル410のイタリーデザインが受け入れられず念願の勝利を得る。それからはシーソーゲームが続き”BC戦争”と呼ばれるようになる