20世紀初頭は金満家御用達の乗用車も、量産技術が確立すると一般庶民も買えるようになり、そんな車を大衆車と呼ぶ。大衆車は世界各国、どこの自動車生産国にも存在する。
かつて世界最大の自動車王国だったアメリカの大衆車時代は、T型フォードの誕生で始まった。また自動車輸出大国だったイギリスの代表作ならオースチンセブンだろう。
自動車発祥の地ドイツには、WWII以前から大衆車は沢山だが、世界を代表するこれぞ大衆車というのがフォルクスワーゲン。またフランスのプジョー、シトロエン、ルノー。またイタリーにはフィアットなど、各国に活躍した大衆車がある。
さて、乗用車なら後進国日本だが、太平洋戦争が終わり先進国に追いつけ追い越せと頑張り、最初に大衆車の名乗りを上げたのがブルーバード、そしてコロナだが、すぐに敵対関係となり長い闘いが始まる。世に云う”BC戦争”である。
が、BC共に、本当に大衆車と呼べるかは疑わしい。敗戦の後遺症が残る昭和30年代、大卒初任給が1万5000円にならない頃の大衆に、60万円を越える買い物は高嶺の花だったから。
日本の大衆車元年は何時?ということになると、1966年(昭41)と私は云いたい。日産からサニー、半年遅れでトヨタからカローラが誕生したからだ。
二車は、登場と同時に良きライバルとして戦い続ける。それはBC戦争の再来だった。が、BC戦争の緒戦は圧倒的にブルーバード有利で始まったが、次の闘いは圧倒的にカローラ有利で始まった。
二車の闘いは、他社をも価格競争に巻き込み、経済成長で収入が増える大衆とあいまって、一般家庭でも「ひょっとして車が持てるかも」「頑張れば車が持てる」と希望を与えることになる。
カローラは、その後も成長を続けて、やがて世界的大衆車フォルクスワーゲンを抜いて、世界のトップセラーになるのだが、その辺についてはまたの機会にする。
さて、カローラの誕生は66年10月。サイズは全長3845㎜、全幅1485㎜、全高1380㎜、ホイールベース2285㎜。車重690㎏。大人四人が楽に乗れる広さが確保されていた。
4L型水冷直列四気筒OHVは、ボア75㎜、ストローク60㎜で1077㏄、圧縮比9、60ps/6000rpm、8.5kg-m/3800rpm。対するライバルのサニーは988㏄だった。
その差はわずか89㏄だが実は大きな差で、後日予想外な影響を生みだす。先ず、サニーは1リットルクラスだが、カローラは1.1リットルクラスを名乗ることで、誰もがグレード差を感じた。
二車の闘いは、サニーが先行登場して始まった。軽量高性能、安価なサニーは登場以来、日ごとに人気上昇。同時発売が出来なかったカローラに、トヨタは巧妙な作戦を計画した。
後発という不利な立場を一気に覆そうという魂胆で編み出した作戦で、登場したキャッチフレーズが”プラス100㏄の余裕”。100㏄大きいことで、高級感と高性能感を訴えたのだ。
この100㏄、実際には89㏄だが、当初はサニーと同じ1リットル。で、格差捻出のため急遽気筒容積の拡大に努力したが、89㏄が精一杯だったと推測される。
初めから1.1リットルエンジン開発ならば、常識的には1099㏄に、こよなく近い容積になるはずである。ボア拡大では、限界が89㏄だったと想像される。
で、この”100㏄の余裕”が、素晴らしい威力を発揮して、登場した月からサニーを抜いて販売量でトップの座に坐るという離れ業をやってのけたのである。
もっとも100マジックばかりでなく、後発有利の例えどおり、無駄を省いた質実剛健、実用優先のサニーに対して後発カローラは、乗用車らしい姿、インテリアの仕上げにも上等感を加えて、大衆車から安っぽさを排除したのである。
両車、ツードアセダンということでは共通していたが、サニーの変速シフトは、既に新鮮みを失っていたコラムシフト。対するカローラは、フロアシフトでスポーティー感を演出していた。
たった89㏄は、僅かだがサニーを上回る性能を与えた。最高速度140km/h、ゼロ400m加速20秒前後は、当時のリッターカークラスでは最速であった。
市場の王座に坐ったカローラは、翌年フォードアセダンを追加。68年スポーティーなSL追加。更にスポーティー+高級感を加えたスプリンターを追加、と続々と陣容を整えていったのである。
ちなみにSLは、圧縮比を10に上げて73馬力を絞り出し、時速160km/hの大台を実現してみせた。こうして着々と発展を続けた結果、カローラは日本のトップセラーから、世界のトップセラーへと羽ばたくことになる。