BMWの社名の由来は前編で説明した。ついでに加えておきたいのは伝統のエンブレムと共に、も一つの伝統的アイデンティティーがあるということ。
キドニーグリルと呼ばれ親しまれてきた、あの二分割されたラジェーターグリルは、エンブレムと一対でBMWの顔とも云える存在である。(写真トップ:BMW502・3.2V8-スーパー。角張ったベンツに対してBMWは曲面と対称的、ウッドと革のインテリがゴージャス。戦後のBMWユーザーは戦前のBMWを知っている人が多かった。)
自動車物書きとしては不勉強ではあったが、キドニーとは腎臓のことと、長い間知らずに書いていた。云われてみれば、たしかに腎臓の形をしている。
WWIの敗戦で仕事はなくなったが、そこから見事に立ち直ったBMWは、再び飛行機エンジン生産に加えて、オートバイ、そして自動車生産で着実に力を付けていったのである。“二足の草鞋”=二足のワラジを履く、という諺があるが、BMWは三足の草鞋で、会社を成長させたのである。もっとも、江戸時代からの”二足のわらじ”の源流は、博打うちが十手を持つということだから、BMWには少々こじつけ気味ではあるが、ここでは調子よく言葉の語呂合わせと御容赦賜りたい。
いずれにしても、BMWは三足の草鞋を履いたままWWIIを迎えた。で、ダイムラーと共にBMWエンジンは大活躍、ジェットエンジンの開発実用化にも成功し、戦闘機に搭載された。
そして二度目の敗戦で、BMWも二度目のドン底に落ち込む。が、同じ敗戦でも日本は初体験、ドイツは二度目だけに再建に知識があるのが強みである。
自動車工業全体でも、戦前大生産国だったドイツと後進国の日本ではまるで状況が違う。ドイツは、戦後6年目の1951年には、早くもフランクフルト自動車ショーを開催している。戦前は一流でも敗戦国らしく、ゴリアート、グートブロートなどバブルカー、日本で云う軽自動車が多いのは当然だったが、人目をひく二台の大型高級車が注目を浴びる。
一台は2996㏄ストレートシックスOHC・115馬力エンジン搭載のメルセデスベンツ300。もう一台がBMW501だった。ベンツのホイールベース3050mmに対して、BMW501は2835mmと少し小振りでも全長4730mmは堂々たる風格である。新開発OHVエンジンは伝統のストレートシックスで1991㏄/65馬力。52年市販時には72馬力に強化され、最高速度も135から140㎞へと向上していた。
54年、BMWの戦後ドイツ初登場のV型八気筒2580㏄はアルミ製という斬新構造。が、翌年ボアを8mm拡大、3168㏄に出力も100から120馬力に向上させて搭載、型式も501から502に改める。502のV8は、57年にキャブレターをゼニス型二連装として140馬力に向上し、BMW502-3.2スーパーと名乗った。
同じV8搭載のBMW507は、素晴らしいスポーツカーだった。こいつは当時人気のベンツ300SLの対抗馬だったが、300SLより高価格なので251台しか売れず、営業的には失敗作となる。石原裕次郎の300SLは日本では有名だが、507は当時ドイツに兵隊で駐留していたエルビス・プレスリーが買ったことで、名が知れるようになるが、営業面では焼け石に水だった。
このように、BMWが戦後の再スタートを高級車路線に頼ったのが命取りになり、業績はジリ貧で、にっちもさっちもいかなくなる。170型という中型車から再出発のベンツの方が健全で、ドイツ高級車メーカー同士の戦後の闘いは簡単にケリが付いてしまった。
で、BMWの経営陣は、戦後二度目の再出発の旅に出る。今度は高級車路線をサッパリと捨て、再出発の旅を、なんと軽自動車から始めたのである。
で、イタリーのイセッタ社を工場ごと買収して売り出したのがBMWイセッタ。次にBMW700→BMW1500→BMW2002と、着実な歩みを続けて、高級スポーティーのイメージ作りに成功、今日の元気を生みだしたのである。
大学生の頃、航空部のグライダー製作資金集めで日本航空に行った。当時の社長は藤山愛一郎先輩。先輩は傘下の会社が百数十という財界のドン。ホテル火災で焼け太りと云われた横井英樹のホテルニュージャパンも、元は藤山先輩が創ったもの。
二度目の寄付金頂戴に伺った羽田で「銀座交潤社に行くから学校に帰るなら乗りなさい」と三田まで乗せてもらったのが、BMW502・V8スーパーだった。