【車屋四六】BMWを知らない人が多かった

コラム・特集 車屋四六

今から20年ほど前、既にBMWは憧れの車で、旦那はベンツ奥さんBMWなんて構図が出来上がり、3シリーズに乗る若い女性が増えて六本木カローラなどという呼び名も生まれていた。

が、昭和20年代30年代、いや40年代に入っても、BMWなどに気をとめるドライバーは、ごく稀な存在だった。ビーエムダブリュ?「それ何だい」といった具合である。が、オートバイマニア達は別で「ビーエム」などと粋がって呼んでいた。それほど認知度が低いBMWを、BMWジャパンが設立されるまで、輸入代理店だったのはバルコム貿易(株)だった。

バルコムはハーレイダビッドソンの輸入元でもあった。54年頃の住所録では、東京港区芝公園5号1・日赤ビルだが、記憶では日比谷映画館前の三信ビルにもあった。

バルコム社長は私のことなど憶えてはいないだろうが、BMWやハーレイを飽きずに眺めていると、側に来て話したことがある。BMWジャパンが発足してしばらく経って、箱根富士屋ホテルの食堂で奥さんらしき人と、ノンビリ食事をしている姿を見かけたが、悠々自適に人生を楽しんでいる風情が羨ましかった。BMWジャパンは輸入代理権を高く買っただろうはゲスの勘ぐりである。

高校時代から車マニアの私は、BMWをドイツ語読みに「ベーエムベー」とカッコウ良く呼んでいた。ごく少数のマニアも皆そうだった。が、何故かBMWジャパンが発足すると”ビーエムダブリュ”と英語読みが正式名称になった。

ドイツの老舗はいずこも同じ、BMWも二度の敗戦による痛手から見事に立ち直った企業である。いずれにしても、第一次世界大戦(WWI)中は、まだ自動車メーカーではなかった。

WWIが14年に始まり、急速に発展する飛行機のエンジン専門メーカーとして、正式にBMWが発足したのは17年。製品は優秀だったようで、有名な撃墜王リヒトホーフェンは、愛機フォッカーにダイムラーよりBMW製を好んだと聞く。(写真トップ:WWI中活躍のフォッカーDrーVII/1918~。ダイムラー製とBMW製、二種類のエンジンを搭載)

が、18年敗戦→ドイツの飛行機生産禁止で、エンジンも作れなくなり、従業員を食わせるためには形振りかまわず手当たり次第に作る、早い話が鍋や釜を作って急場をしのいだものだ。そうこうするうちに、世界中の飛行機関連メーカー特に敗戦国メーカーのたどる道で、彼らの技術や工作機械が生かせる自動車作りに手を付ける。で、23年に開発に成功したモーターサイクルが、後世に名を残す傑作R32だった。空冷水平対向二気筒488㏄でシャフトドライブの基本構造は今でも作り続けられている。

飛行機エンジン屋初開発のオートバイR32型は世紀の傑作だった。空冷水平対向二気筒シャフトドライブの構成は現在でも継続性生産されている

やがてドイツの飛行機製造禁令は解除。エンジン製造を再開しても、R32の生産を続けたばかりか、29年には四輪車製造にも首を突っ込み、確固たる乗用車メーカーの仲間入りを果たすのである。ちなみに、この第一号車ディキシーは、オースチンセブンのライセンス生産である。

釈迦に説法になるだろうが、あの誇らしげなBMWの丸いオーナメントは、青空と白い雲をバックのプロペラがモチーフで”初心忘れず”というよりは、飛行機エンジンメーカーであることに誇りを持っているのだろう。ついでながらBMWという社名の由来は単純明快。会社の創立地がドイツのバイエル州だから→バイエリッシェ・モートレン・ベルケ。直訳するなら、バイエル発動機製造工場なのである。

BMW社最初の四輪乗用車は英国オースチン社の傑作大衆車オースチンセブンのライセンス生産から始まった。写真はロードスターだがセダンもある