【車屋四六】イターラを見つけた

コラム・特集 車屋四六

モンタギュー公に面会、挨拶が終わると、紹介された執事が私たちの胸に青いパスを付けてくれた。

「これは主人のお客様だけのパスで色が違います・どの車も勝手に触り乗れます・展示車のほとんどは動きますから係に言いつけて外に出し屋敷内を走り写真を撮ることができます」

博物館内はかなり広く、少々薄暗いのが玉にキズだが、各年代のスピード記録を作ったレコードカー、グランプリレーサー、乗用車、スポーツカー、とにかく見渡す限り古い車、由緒ある車が並び、その気になれば、そのどれにでも乗れるのだから、素晴らしいVIPパスをくれたものである。

収集の範囲は実に広く、世界のあらゆる車が集められていたが、さすがに昭和40年代では日本にまでは目が届かなかったようで、日本車は見あたらなかった。

と、思ったら、オートバイ展示の別の部屋に、TTレースで優勝したホンダのレーシングバイクが数台展示されていたのを見つけて、なにやらホッとしたのを憶えている。

館内を回っていると、いかにもベテランという風情の年をとった修理工が車の手入れをしていた。

「この四人が手入れをしながら一年が経つと館内を一巡します」と係員が説明。古い車を動かし続けるには大変な努力が必要で、動かなければクラシックカーではない、動態保存が基本だと云う。

感心しながら隣の部屋に入ると、長年の憧れが目の前にあった。1907年生まれのレーシングカーのイターラ。そもそもイターラ社は1904年の創立で、高性能車を得意とし、各地のレース場で好成績を残し、世界に名を知られていった。(シルバーゴーストやイターラと共にルノーも博物館の目玉。1906年製、直四4398㏄、24.8馬力。側に立つのは博物館支配人)

写真のイターラが特に私の脳裏に焼き付いていたのは、レース史上で有名な、北京→パリレースの優勝車だったから。

1965年製作20世紀フォックスの映画”フライングマシーン”=日本題名”素晴らしき飛行機野郎”の中に登場して懐かしかったことも理由の一つ。(石原裕次郎がパイロットで出演)

この時代のレーシングカーの特徴はビッグエンジン。大排気量全盛の時代だった。ガソリンエンジンが前世紀末に生まれて僅か10数年しか経っていないのに、速く走る競争にのめり込んだ業界は、出力向上に夢中だった。

が出力向上で回転を上げる技術はなく、もっぱら排気量拡大に頼った。昔街道で見た陸送中のトラックシャシーに運転席を付けただけという姿のイターラの心臓も、なんと1万4432㏄。それが直列四気筒だから一気筒当たり実に3608㏄で、出力は120馬力。

当然低回転、高トルク型だから、四速ギアのトップ1100回転で最高速度100哩(160km/h)をオーバーするという、とびきりの高性能車だった。

我々が喜々として写真を撮りまくっていると、日本なら農協さん風イギリスのツアーグループが、もう我慢できないとばかりに博物館の係員にカミついた。

「我々は戦争に勝ったのに仕切りの中に入れない・奴らは敗戦国の日本人なのに中に入り車に乗って写真を撮っている・何故だ」驚いて立てた聞き耳に、そんな話が聞こえてきた。

険悪な空気に、どうなることかと眺めていると、なんと係の一言でケリが付いてしまったのである。

「彼らはモンタギュー公のお客様なのです」・・・険悪だった顔つきが「それじゃ仕方がない」といった感じで穏やかに。

それから20年ほどが経って、日本で活躍する英人ジャーナリストのラドレーにその話をしたら「イギリスは未だに封建的で貴族は絶対・貴族が白と云えば白、黒と云えば黒、貴族は常に正しく市民は逆らわないというよりは無意識に従うのです」。その後で「戦争になれば貴族は先頭に立ち指揮をとります」と付け加えた。

ものすごい剣幕が一言で納まる理由が、理解できた。

ルノーのエンジンカバーを取ってもらって覗き込む筆者。頼めば支配人は何でもやってくれた