未だ東京タワーが建つ前、桜田通りの三軒の外車ディーラー、日仏自動車と日本アメリカン自動車については、既に説明した。残るは三軒目の新朝日自動車になった。
所在地の琴平町なる町名は、江戸時代から鎮座まします金比羅大神宮に由来するのはもちろんだ。格式高い神社らしく、桜田通りに面して大きな鳥居が目立つ。
その鳥居と並んで右角に新朝日自動車はあった。二階まで吹き抜けガラス張りのショールームに白壁。戦後のどさくさ時代にしては、綺麗で目立つ建物だった。
余談になるが、新が付かない朝日自動車というのもあって、こいつは国道246号の現在六本木アークヒルズが在る辺りで、ロールスロイスとベントレイ、ローバーの日本総代理店だった。
昭和30年代になってからクラウンも売ったが、新朝日自動車はポンティアックの日本総代理店だった。ポンティアックは、GMファミリ-の上位から、キャデラック、ビュイック、オールズモビル、ポンティアック、シボレーという顔ぶれの中の一員である。1953年型までは、シボレーと全く同じコンポだったから、サイズも姿も全く変わらず、シボレーより少し上等という位置づけのように、塗色や装備が少し上等で、エンジンも上級グレードでは直列八気筒を搭載していたりした。
ついでながら、オールズモビルは更に上位だが、スポーティー好みのユーザー向きの仕立てで、さらに上級のビュイックは年配者向け乗り心地重視で豪華な仕立てになっていた。キャデラックは説明の必要も無かろう。アメリカを代表する高級車で、歴代アメリカ大統領の公用車としても活躍、日本の皇室にも採用されている。
最近はネイティブピープルと云わなくてはいけないが、私には差別的意志など全くないので、インディアンでないとどうもしっくり来ないし親しみもわかない。ポンティアックは、白人と勇敢に戦った勇敢な酋長の名前だそうだ。昔、アメリカ映画の中で、有名な喜劇俳優ボブ・ホープがインディアンの酋長で、頭上を羽根で飾りダンダラの革服で登場、白人が「お前は誰だ」と聞くと「俺はポンティアックだ」というところで爆笑したのはアメリカ人ばかりだった。由来を知らなければ、笑えないアメリカ人ならではのギャグである。
完成間近の未舗装だった箱根スカイラインのポンティアックは、1952年型。高校から大学までのクラスメイト、西村元一が家から持ち出して、ドライブした時のもの。ちょうど買ったばかりの新車だった。
彼の父親は、国際自動車興行の社長で、日本橋茅場町で戦前から自動車工具の輸入販売の老舗。似たような名の会社が幾つかあるが、国際興行は小佐野賢治のバスやハイタク業で、国際自動車は波多野家経営の大手ハイタク業者だった。
その52年型が来る前の車もポンティアックで46年型だった。それは例の3マンダイだったが、52年型の方はちゃんとした日本ナンバーだった。1952年から禁止だった日本人向けの新車輸入が解禁になってからの購入だったからである。でも、輸入禁止解除の初めの頃は、確か抽選だったと記憶する。運が強いというのか、西村家では初めフランス製ルノーが当たり、確か90万円ほど買ったと思う。
が、ルノーが来た直後に、更にポンティアックの当選が通知されて、大きい方が良いということになったようだ。が、先着のルノーに困ることはなかった。ポンティアックが来て直ぐに、電話が掛かって「お宅はポンティアックが当たったようで出来ればルノーを譲って頂けないか」という。しかも「勝手なお願いなので110万円ほどで如何でしょう」で、譲ってしまったという。
当時、都市銀行の初任給が6000円ほどの時代だから、何もせずの数日で、濡れ手で粟の20万円は大した稼ぎである。ちなみに、西村家が新朝日自動車に支払った、ポンティアックの代金は220万円だったと聞く。いずれにしても、金があっても新車が買えない時代、買えるなら高いのも承知というほどに、輸入禁止のせいで新車が欲しい時代だったのである。
が、外貨に少しゆとりがでて新車が輸入されるようになったのも束の間で、1954年を最後に、再び輸入禁止になり、日本に輸入外国中古車市場が生まれて、ブローカー暗躍時代に突入するのだが、その話はいずれまた。
最後に、西村家の1952年型ポンティアックは、最上級のチーフタインだったが、ポンティアックでは未だV8がなくて直列六気筒。パワーステアリング、パワーブレーキ、ATはハイドラマティック型だが、三速目がタウンとハイウェイの2モードがあるので、当時ATでは珍しい実質四速型だった。