【車屋四六】デトロイト・エレクトリックとは

コラム・特集 車屋四六

20世紀を通じて最大進歩を遂げた一つに、ガソリン&/ディーゼル機関がある。云うなればレシプロ進化の世紀だった。

21世紀に入ると化石燃料の枯渇、省エネ、環境保全などからハイブリッドや燃料電池に目が向けられるようになるが、現在本命とされているのが電気自動車のようである。(終局は燃料電池か)

が、電気自動車の歴史は、予想外に歴史をさかのぼる。
ちなみに19世紀は蒸気機関発展の世紀で、その世紀の終わり頃に登場したのが自動車だが、生まれたてのレシプロエンジンではヨチヨチ歩き。で、信頼感ある蒸気自動車と電気自動車が活躍した。

トヨタ博物館所蔵のベイカーエレクトリックは1902年製(写真上)。1907年そのレーシングカーが、何と167.4キロメートルという最高速度を記録しているのである。

また1900年には、ライカーエレクトリック社やクリーブランドエレクトリック社等が創業し、発明王エジソンも1895年に電気自動車を試作している。

そんな時代に産声を上げたのがデトロイト・エレクトリック社で、07年(明治44年)から39年(昭和14年)まで、活躍する。
写真(右)は14年(大正3年)に登場した車。10馬力電動機を8ボルト電池で駆動して、時速40キロメートルという性能。ちなみに前進五速/後退一速の変速機を持ち、車体後部の電池は搭載したままで充電する仕掛けになっていた。

14年といえば第二次世界大戦が始まった年。急進撃するドイツ軍に対するフランス軍が、パリ中のルノー製タクシーで兵隊をピストン輸送して勝利を手にしたマルヌの戦いが逸話として残っている。
一方、日本は連合国軍として参戦し、ドイツ統治領の支那青島を攻撃、勝利、占領した。

当時レシプロ自動車にはセルモーターがなく、力一杯クランク棒を回してのエンジン始動は、女性にはしんどい作業だったし、やり損なうと逆転(ケッチン)して怪我をすることもある。
その点電気自動車は、アクセルを踏めば走り出し、静かで排気ガスの臭いも皆無、ということで上流階級のご婦人方の人気が高かった。

もっとも電気自動車繁栄の理由がもう一つ。特許である。
1879年、賢い米国人セルデンが“圧縮型液状炭化水素機関で駆動する路上機関車”で特許を申請、成立していたからだ。

その特許使用料は、契約時1万ドル、その後販売で得た利益の2%という高額なもの。レシプロエンジンの自動車を販売すれば莫大な特許料を覚悟しなければならなくなったのである。

それでセルデンは、20万ドルという巨額な金を懐にしたといわれている。

そのてん電気自動車はセルデンの特許とは無縁だから人気上々。
写真の14年型は1000台も出荷と記録されている。
正確なモデル名は、デトロイト・エレクトリック46型ロードスター。ホイールベース100吋、販売価格は2500ドル。ちなみにセダンは、3000ドルだった。

クラシックカーの値段というものは、人気と状態に支配されるが、極上コンディションなら、現在3万ドル以上もすると聞いた。
ちなみに写真のロードスターは、ラスベガスのインペリアル自動車博物館で撮ったもの。

近頃はやりの電気自動車の泣き所は走行距離が短いこと。
が、昔も変わらず、20世紀初頭の電気自動車も、ライバルを含めて、満充電での走行可能距離は、80~120キロメートルだったそうだ。
でも、当時の低性能で重い鉛電池で、100キロメートル前後というのは、考えてみればかなり高い技術で作られていたことになる。
ちなみに、敗戦後の復興期に人気があった“たま電気自動車”は、50キロメートル前後しか走れなかったのだから。

太平洋戦争敗戦後ガソリン不足の時代に好評の“たま電気自動車”/三本和彦さん「オヤジが電池換えてこいと云うたびに面倒だし重いし往生した」と云っていた